この仕事は私でなくてもできる。
どんな仕事も私でなくてもできる。
なぜなら、仕事とはそもそも代替可能性を持たなければならないからである。
加えて、私とはそもそも代替可能性を持っているからである。
私は偶然に生まれた。ということは生まれない現実世界もあり得た。
私は自己決定の必然として生きている。ということは生きないという現実世界もあり得た。
しかし、私は偶然と自己決定の必然の結果として現実世界に存在している者となっており、それゆえに、代替可能性を持っているのである。
私が偶然と自己決定の必然を放棄して、死んだ場合、この世界が続いているかは認識できないし、判断もしえない。
けれども、代替可能性を持っていることだけは、認識できるし、合理として判断しえる。
仕事とは行為が終了すれば、そこで終了し、新たな仕事へと進展していく。
代替可能性で共通する仕事と私から推量するに、
私とは行為が終了すれば、そこで終了し、新たな人へと進展していく。
つまり、私とは行為であり、その行為が終了すれば私は、他の肉体的存在者に取って代わられるであろう、となる。
私とは行為である。
行為こそが、代替可能性を私に落とし込み、現実世界に存在者たらせる、そのように解される。