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「 愚かさ −生物が個別死を受け入れるため− 」
2016年07月15日(金)



 この恐ろしく、悍(おぞ)ましさから、わが身、わが心を守っているのは、なんなのだろうか

 この恐ろしさ、とは「世の中に1つでも役立つことを残したい」というささやかな、正しい願いを踏みにじる恐ろしさである。

 世の中は、人の作り出す世の中に過ぎない。
 人類が何時か滅びる、地球が何時か無くなる、という世の中なのである。
 結局、全てのことに永遠性はない。
 人間の到達し得る範囲に、永劫がないのである。

 悍ましさ、とは目を開けば見えてくる、お日様が昇れば明けてくる、何気ない日常生活の裏側に、それらが全く無価値、無意味である塊が、水のりようにべったりと引っ付いて決して離れない、悍ましさである。

 家族愛、師弟愛、慈悲、神の愛、修身、知識、製造物、快楽装置、照明装置など、ありとあらゆる人の手で作り出しし社会生活の裏側に、それらを全て無にするものがくっついているのである。
 「それをして何になる?」
 という子供じみた問いに、決して答え切ることは出来ないのである。

 ただ単に、「生きることを受け入れる決断をした」などという茶化した逃げ、
 あるいは、「裏側に目を向けない愚かさ」が私達の裏側に横たわっている。

 それは、知性を備えた生物が個別死を理解した瞬間に、生き残るための愚かさだったのかもしれない。
 なぜなら、個別死の恐ろしさ、悍ましさに囚われたのなら、狂うしかなくなるからである。

 思考を研ぎ澄まして死に相対峙すればする程に、世の中と日常生活とずれていくのは仕方がないにしても、
 相対峙した無の奥深さは無限だからである。

 愚かさ、とは知性を備えた生物が個別死を理解した瞬間に獲得したものなのかもしれない。
 退嬰(たいえい)もまた、生物の生存に適う、結果なのかもしれない。

 こうして個別死を種の保存から考えてズラした解答しか、得られないのだから。


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