ものかき部

MAILBBS

「 絶対的自我29 −エジソンの「個別性」と「個性」− 」
2016年01月02日(土)



 若い時分から、自分の中にある精神要素を殺さないようにしてきた。

 エロも、グロも、狂気も、光悦も。

 それで社会の境界線を踏んだことも、当たり前のようにあった。


 世界の七割が信仰する『聖書』の神は人格神である。

 理性神などではない。

 フェティシズムは物体に人工を見ることで生まれる。

 グロい絵の殆どは人体の加工したことで生まれる。

 どちらも、人工の付与でしかない。

 言い換えるなら、どこまでも人工化されたものに、人間の中にある精神要素を付け加えたものでしかない。

 
 全く人工を付与しない存在者に対して、自然物に対して、私達は何かしらの精神要素を付け加えることが出来るのだろうか。

 もし、出来たとするのなら、そこに初めて、個性、と呼べるものが出てくるのであろう、と。

 太陽の光に対して、エロさを感じ取って光悦にいたる、などの。

 あくまでも、そこに人工化されてない状態で、である。

 太陽の光を、何かの人の言葉や概念や、過去の経験を投影して人工化せずに。

 そうしたことが可能なのかどうか。

 けれども、そのくらいしか、私達は他者との比較でしか生まれない「個別性」ではなく、独創である「個性」を持つのではないだろうか。

 エジソンは「個別性」である。

 それは独創である「個性」が社会一般に理解されないから、エジソンを個性と呼ぶに過ぎない。

 耳触りのいい、小学校で落ちこぼれていた、などの説話と共に。


BACK INDEX NEXT

複製、無断転載、二次配布等を禁じます。
All Rights Reserved©ものかき部

My追加