若い時分から、自分の中にある精神要素を殺さないようにしてきた。
エロも、グロも、狂気も、光悦も。
それで社会の境界線を踏んだことも、当たり前のようにあった。
世界の七割が信仰する『聖書』の神は人格神である。
理性神などではない。
フェティシズムは物体に人工を見ることで生まれる。
グロい絵の殆どは人体の加工したことで生まれる。
どちらも、人工の付与でしかない。
言い換えるなら、どこまでも人工化されたものに、人間の中にある精神要素を付け加えたものでしかない。
全く人工を付与しない存在者に対して、自然物に対して、私達は何かしらの精神要素を付け加えることが出来るのだろうか。
もし、出来たとするのなら、そこに初めて、個性、と呼べるものが出てくるのであろう、と。
太陽の光に対して、エロさを感じ取って光悦にいたる、などの。
あくまでも、そこに人工化されてない状態で、である。
太陽の光を、何かの人の言葉や概念や、過去の経験を投影して人工化せずに。
そうしたことが可能なのかどうか。
けれども、そのくらいしか、私達は他者との比較でしか生まれない「個別性」ではなく、独創である「個性」を持つのではないだろうか。
エジソンは「個別性」である。
それは独創である「個性」が社会一般に理解されないから、エジソンを個性と呼ぶに過ぎない。
耳触りのいい、小学校で落ちこぼれていた、などの説話と共に。