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「 絶対的自我28 −感謝という欺瞞(ぎまん)、仏教と自然科学− 」
2016年01月01日(金)


 
「こうして朝が迎えられるのは、太陽があるからです。太陽によって朝が迎えられ、働くことができ、光合成によって食べることができます。重力によって歩くことも出来ます。だから、有り難う御座います。」

 この「だから」というのは欺瞞(ぎまん)である。

 物質世界と個人の精神世界の因果関係を見るのは欺瞞である。

「こうして私が生きられるのは、多くの人が支えてくれるからである。警察が治安を、政治が税と国防を、町内会が地元の結びつきを、親兄弟両親が私を支えてくれる。だから、有り難う御座います。」

 この「だから」というのは欺瞞である。

 社会関係と個人の精神世界の因果関係を見るのは、ヒュームの因果律批判を出すまでもなく欺瞞そのものである。


 太陽を含めた世界そのものの奥底に人格神を阿弥陀仏を観るのは、この欺瞞を押し広げたものに過ぎない。

 仏教は唯心論である。

 私の精神世界と世界とを一体と観る。

 特にその因果関係を私の精神世界を出発とする。

 としながら、他者の死がこの世界と結びついていないことを認めようとしない。

 この奥底にあるのは、私の精神世界の絶対視であり、因果関係を一律とする観方である。

 この2点に欺瞞がある。


 物質世界も同様である。

 自然科学の法則は確率論的に存在的原理を知りうるしか、人間には出来ない。

 現在、暗黒物質や重力波などの学問的欠陥が指摘されているが、それが観測可能になったとしても、存在的原理という自然科学の法則が、この世界の原理そのものであることを人間は認識しえない。

 そこには仏教と同じく、絶対視と因果関係を一律とする観点がある。

 この2点に欺瞞がある。


 私達の精神世界のあり方を考える時に、こうした欺瞞に立たなければならないのだろうか。

 そうした方が精神の安定が得られる、などという功利的な放言で、さらに誤魔化すことしかないのだろうか。

 功利的な放言は、道徳的感謝へ道を遮るというさらなる誤魔化しが含まれているというのに。


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