「椅子の聖母」は、トンドと言われる円形画の持つ表現の可能性を極限にまで追求した絵画だそうだが、私は何かそれ以上のものがあるように感じられた。本の最初にあったモナリザやピエタを眺めてみる。モナリザは深くともけれど、やはり一面的な感情しか引き出されない。ピエタは何か遠い世界の話がして、神秘性のような美しさしか感じられない。この絵は母性的な愛情を描いていながら、荘厳さや形に出来ないでいる色々な感情で惹きつけられる。何なのであろうか、結局閉館時間までそんな思念をグルグルと回したり、絵画を眺めていたりした。
出不精で勧められても施設から出なかった私が翌日も外出するというので、職員の人は珍しがったし、「女が出来たんじゃないか」と言う奴もいなくはなかった。11月の消灯後、しょんべんを出そうとちぢみあがっている時に、他の写り方や解説も読んでみよう、という気になったのだ。同じ図書館の絵画の棚に当たってみようと思って外出願いを翌朝、食事前に提出した。それから、間もなくして府立図書館などにまで出かけていった。職員の人が推奨する趣味には当たらないと思うが、歩くすら大儀だったのが気楽になり、平気で新しい場所に行った。調べて見ると覚えきれなくなったので、ノートを作りメモをした。聖母子像の題材は、右のページと同じ恋人フォルナリーナという説や、偶然田舎を通りかかった時に見かけた母親と2人の子供が題材であるとか、色々あるらしい。けれど、それらは全て神話で成立事情は何一つ分かっていないというのが、美術史上の定説らしい。
そんな絵画の素晴らしさには関係ない知識もあれば、勉強を始めた色彩学から観てみると、赤、黄、緑、青、という秩序だった法則に乗っ取っているらしい。4色配色をテトラードというそうだが、背景の黒、そしてターバンの白を加えるとイッテンのヘクサードという6色配色になるそうだ。色彩学が確立していなかったけれどラファエルロは、ヘクサードを使っていた。ただ、ラファエルロの他の作品でも、3色配色や4色配色のように秩序だった作品はごく少なく、画面上の色の面積割合からすると彼の作品の中でも「椅子の聖母」しかないようだった。
よくよく観てみると、ダビンチは構図に関してはずば抜けているが、色彩からみると拙く見える。ルネッサンス期を代表する3人のもう1人ミケランジェロも「聖家族」以外は、色数が少なく面積なども非常に貧しく感じられる。その「聖家族」も1つの色で明暗をつけ過ぎていて、1つ1つの色が目立ちすぎてしまい全体としての纏まりに欠けてしまっている。多色配色がミケランジェロでは逆にゴチャゴチャとした印象を強めてしまっているのだ。「椅子の聖母」は明暗で振り返っても大きな差がなく、ヘクサードが綺麗に当てはまる。ヘクサード以上の7色配色などは1つ1つの色の明瞭性がなくなるため、配色名がないそうだが、ラファエルロは「椅子の聖母」を、円形図の最高の構図とギリギリの色彩を使って表現していた。
そんなことが分かりかけてくると、そして何度も眺めていると、益々、のめり込んでいった。
細々とした年金生活者ではなく預貯金はかなりあって、どうしても観たくなった絵画を見ようと決意をした。曙色に染まった聖母の頬、白々としたターバン、緑青色の重厚なストール、本物はどんな色なのだろうか。椅子の棒がロイヤルパープルよりも濃い躑躅と金、それに、絵画全体が放つオーラはどのようなものであろうか。絵画のテーマにまでなったラファエルロの神格化やルノアールの絶賛を引き出した最たる絵画は、最盛ルネッサンスの最高潮とまで膾炙される絵画は、どのようなものであろうか。いやそのような他人の評価よりも、私の中での関心が日に日に高まりを押さえきれずに、搭乗する決心をした。専門家の意見は私の中で、時に否定され時に肯定されつつ心の底にある関心を間接的には刺激していた。場所はフィレンツェ、ピッティ宮殿内ガレリア・パラティーナ美術館。アルノ河とローマ門の丁度間にある。連絡を30年か4,50年もとっていない親類以外、身寄りがなく、衝動を抑えきれずに翌日、飛行機のチケットを入手した。
関西空港から飛行機に乗り込みソファーに座ると、最初に聖母子を見てから3ヶ月が過ぎているのに気がついた。3ヶ月間の盲目さを一瞬恐れたけれど、己の肉体が「聖母子像」に供えられる貢物のような気がしてきて、嬉しさに打ち震えてきた。何もしがらみも責任も無くなった老体が、あのような荘麗な方へと奉げられるのなら、こんなに幸せなことはない、と感じたのだ。既に地位や金や女は飽きてきて、魅力は失せていた。そこから得られる利益もどうでもよかった。何も見返りのない世界への投げ出しに、と思った刹那、体がガタガタガタと小刻みに震えた。今ではフライトアテンダントとかいう水商売のねーちゃんが、「大丈夫ですか」とスマイルを贈ってきた。「ああ」と語尾を下げて足蹴にしても、許される商売。離陸前で飛行機が怖いと思われたのだろうが、一生飽きるほどの名誉や金が得られない水商売には言っても理解できないと想い、優しく足蹴にした。水分を取り毛布を借り寝ることにした。
飛行中の「ゴゴゴゴゴ・・・ゴゴッ・・・」という音や気圧の変化で、うつらうつらしながら、あの聖母子の絵が浮かんでは消えていった。ただ、円形の枠が無くなり一面の黒い背景の中で、聖母子がゆっくりと動き出していた。彼女らの変わり様を喜びながらも、荘麗さとは何かしらの異なりを感じながらも、浮遊する惰眠に流しこんでいった。