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「 こいすの聖母 」 (3)
2002年11月16日(土)



 アリタリア航空で直接イタリアに乗り付けても良かったのだが、何となく、何となくだが、直接過ぎて理知的過ぎて、聖母像を見に行くには合わない気がし、トランジットを選んだ。パリのドゴール空港で乗り換えの間、3時間の休憩が持てたので、軽食コーナーでサンドイッチと紅茶を頼みながら、「椅子の聖母」のおさらいをした。それが、これまで私の中を3ヶ月間も占拠しつづけ、突き動かしてきた動因に対する敬意の儀式に感じられた。
 最盛ルネッサンスを代表する画家は3人いる。
 レオナルドとミケランジェロとラファエルロ。ダビンチは古典主義の完成に手を貸し、ミケランジェロは古典主義を解体するマニエリズモを生み出し革新面で著しいが、2人の素晴らしい点を独自に吸収した総合的な芸術性で、ルネッサンスを最も代表する画家がラファエルロである。代表作はローマにある「アテナイの学堂」で、壮大様式の達成として最盛ルネッサンスの作品の中で際立っている。この作品の後、多くの依頼がローマ法王庁から来るようになって、肖像画や宗教画を多数残している。また、彼の自画像を見ると、温和でデリケートな感覚を備えた容姿で、貴族的趣味や礼節を完璧に身に付けていて、生前から人気を集めていた稀有の人であった。理知的なレオナルド、情熱的なミケランジェロのような偏りがなく、調和のとれた作風はラファエルロのこうした性格に由来しているという。しかし、カトリックの寵愛と建設関係の仕事に従事したり、作品に50人を超えた弟子達を多投するようになると、ラファエルロの作品に対する評価が絶対的でなくなってくる。それが丁度、「椅子の聖母」を描いた1515年以後でであった。1520年に37歳で生涯を熱病のために閉じてしまったラファエルロは、1514年、15年が芸術的に最高潮と言われている。作成時期は明確ではないが、様式などから「椅子の聖母」は丁度、この時期に作られたらしいと見られている。

 ここでノートを閉じて、2杯目の紅茶を頼みにいった。本当にフランス人というのは聞いていた通り頑固で、英語ですら答えようとしはしない。漁船から降ろされた魚を捌くような黒ゴムの前掛けをしている太っちょの小母さんは愛想がなく、視線を合わせずに、もっそりとフランス語で答える。
 「ウィー、ムッシュ・・・」
 むっつりしながら、国際空港だというのに全く愛想がない国民性だ、と思った。絵画そのものの歴史を振り返るのは、作品を観てからにしようと考えていた。知識で感情が曇らないように、現象学的還元が出来るように、他人の評価や知識ではなく純粋に作品が私と向かい合うように、と思って。これもまた、大阪で決めてきたルールであった。ルールを決め、1つ1つの手順を踏んで偉大なものに対峙していく時に生じる快楽は、若い頃から体中を痺れされてきた。徐々に老いて他の快楽が低下してくると益々、私の脳を占領した。
 ビニールの中にはいったレモンを2杯目の紅茶に垂らす時に気がついた。そういえば、今回も無意識の内に人生の活きて来た経験が支配していたのだった。思えば、老人ホームで出不精になっていたのも偉大なものへの対峙が見出せなかったからかもしれない、と続けた。
 ならば、対象は偉大なものならば何でも良かったのか。今から見に行こうと向かっているあの絵画でも良かっただろうか。いやそうではない、と心の底が「コポリッ・・・・」と呟いた。何かある、何か初めての何かがある。仕事はまだ来ていたのだから、けれどあの時、仕事に偉大さを、魅力を感じなくなって引退を決めたのだから。それを打ち破る何かが、あの母子像にはあるのだ、と目を細め思考と巡らせた。視線を鋭くしたようで、どうもその先には漁船がいたようで、プィと横を向いて、無言の答えをよこした。アテンダントといい、つくづく人のあやというものは可笑しくて可笑しくて、微笑ませてくれる。

 その日の夜はフィレンツェにバスで入った。ホテルの内装も、道路も町並みも皆、鮮やかな茶色で古びた良き時代を懐かしがっているように見えた。気分は悪くなかったが、合理的でスピーディーな老人ホームと何処か似た匂いがして、ちらりと日本を思い返した。部屋に入ると荷物も解かず、靴も脱がず、テレビも点けず、ノートに飛びついた。湿度の高い鯖臭い日本が染み込んだような街に来て、「椅子の聖母」が近くにあるというのに見に行けないという歯痒さ、何度も何度も逃げるように読み、端が擦り切れてきた文字列を追ってしまった。
1回読んでは靴を取って脱ぎ、2回読んではオーバーをとり、3回読んでは水を摂った。落ち着きを取り戻し、風呂をいただき、入館時間を確かめて早目に床をとった。

 朝起きると、カーテンを閉めなかったせいで鈍い曇天の日差しが、窓際にある銀鼠色のソファーにグラデーションした素鼠色の影を降ろしていた。手前のテーブルの上に載っている青磁色の丸い花瓶に挿された数本のピラカンサは、ソファーの上に赤紅色を広げていた。

 「腹が減った」、起きて最初の言葉であった。
 かれこれ空港のサンドイッチから18時間近く食さなかった。ホテルの料理らしく高カロリーで野菜の少ない料理が所狭しと居並ぶ朝食バイキングには、高級感を出したいんだが誰にでも入って欲しいんだか分らぬ日本のホテルを思い出した。画一性という安心感で塗りつぶされる平和な世界の性は、民族を超えるようだ。日本が彼らをただ真似ただけなのか、などというどうでも良い思考を、いや、「民族を超えるものにしか訴える以外方法はないのだったな」と仕事を思い出して2言目を呟いた。久しぶりの海外で、往年の勘を思い出してしまった。


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