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「 こいすの聖母 」 (1)
2002年11月14日(木)

(最初に題材となる「小椅子の聖母」をご覧下さい。 ただし、発色等を美術書に近づけるために、明暗やガンマ値などを多少弄(いじ)っております。画像は Arts at Dorian様サイト内ラファエロ頁から出典させて頂きました。 なお、当画像は著作権を侵害するものではありません。 詳しくはこちらの頁CRIC様にてご確認下さい。)


 雨水が樋に跳ねる音が聞こえた。

 TVのノイズのように、桶のような丸みを帯びた上に描かれた絵に、灰色と黒白の短い斜線が降り注いでいた。

 ゆるり、ゆるり、と気が帰ってきて、色彩が香り出してくると、木枠に描かれた最も有名な絵の1つであるラファエルロの「椅子の聖母」が、色を感知する眼球の視細胞が集まる中心窩に向かって水晶体が焦点を結びだした。
絵そのものが耀き出す静かな荘厳さに、うら若き母親と2人の子供からインスピレーションを得たという嘘っぱちや、彼の恋人がモデルになったという確証のない記憶の断片が引き出されてきた。ラファエルロが持つとされる普遍的な美から懸け離れ、後付けされた理性的な知識が、眼球の中にある窓のような虹彩にかかった雨粒と肉体が放つ熱で生まれた湯気を、斜めに拭き取り出してくれた。「死ぬん」と僅かな音が続いた。

 「小椅子の聖母」とも言われる母子像に触れられたのは、淀川の支流に寄り添うように建つ、照明も薄汚れたような図書館でだった。毎日の単調さに疲れ、かといって勤しむには厭いて、ブラリ、と軽く勧められた図書館に訪れた。昭和30年に架けられたコンクリート剥き出しの橋は、平日昼間でも盛んな車1台1台に、ガタリガタリと反応を示していた。橋を渡りきると手が届きそうなくらいまで接近した図書館の肌が、鮮やかだった茶色に排ガスで煤汚れているのが判った。横に建てられたクリーム色の新しい肌を持つ市民文化施設では、ちょっと覗くと詩吟や演劇などのお仲間仲良しクラブが、予定表に名前を連ねていた。再び、図書館に向かい狭い入り口に続けて、病院のようなモアッとした暗さを、照明灯や図書館員にまで掛け降ろしていた。案の定、本は漫画や歴史小説など幼稚で享楽なものが多く、量も少ない。そうした市が建てた老人ホームは、外装こそ格好良いのだが中身は、図書館と同じ様に何となく薄暗く、稚拙さ短絡的さを改めて見せ付けられ、うんざりした。久しぶりの外出なのに出鼻を挫かれ、よく読む法律関係のコーナーへ向かうのも億劫になった。何気なくぶらついていると絵画のコーナーがあったので、「絵ならば気楽だろう」とパラパラをめくり出した。
 「フィレンツェ・ルネッサンス」と題された本を数冊目に取り出し、モナリザ、ミケランジェロのピエタ、ダビデをパラパラと流し、「大公の聖母」という下向きのマリアで、パラリ、パラリへとペースが変わった。小さな「アテネの学堂」に懐かしさを覚えながら、めくる右手を開いて「ラ・ヴェラータ」という画名を確認した。最後まで読みきり、次の本に行こうと逆のページに目を流すと、全身の力がすっと抜けた。
 これまで、図書館の照明や市行政に対するチクリチクリと燻っていたのは一気に吹き飛び、円形の「椅子の聖母」へと脳から体液が吸着していくように食い入った。「モナリザ」では顔にしか向かなかった視線が、「ラ・ヴェラータ」では胸元にまで広がり、「椅子の聖母」では、視線が線香花火のように画面の四隅にまでチリチリと飛んだ。
 これは何だろう、何が、何だろうか、という思考すら浮かばす、聖母の母親としての情愛に溢れ、優しくて穏やかでありながら世界を見通そうという両目、うら若さと恥じらいを湛える力の抜けた小さな口、少女のような曙色に染まった頬、白々としたターバンの陰影、緑青色の重厚なストールには見事な織が入っていて、聖母を優しく包み込んでいる。左下には椅子の装飾棒が躑躅色と金色で構成されている。赤子は母に体を預けながら、静かに、何も考えていないか、諦観なのか、はたまた知的好奇心なのか、のように視線を右斜め上に外している。聖母の右手のゆびは、左の甲にしっかりと乗って赤子を抱きしめている。その横には2者に全く意識されないでいて、聖母子に手を合わせて慕うヨハネがいる。赤子とヨハネは肌の明暗だけで、髪や眉や鼻頭、口、肌の質感などはそっくりである。

 幾つもの驚きを何度も何度も行き来すると、背中をちょっと押された。
 通路の狭い図書館だから、1人が本を読んでいると通り難いのは当たり前で、大学生らしいボサボサの格好をした彼は、後ろのリュックが悪気なく当たったようだった。やれやれ、と遠くなるスニーカーを見ながら、視界を見上げた奥の席についた。今度は絵の下にある解説を見る余裕が生まれたが、再び、視線は散らばった。
この聖母は果たして何歳なのだろうか。何故こんなにも気が惹かれるのだろうか。そもそも美しいのだろうか。画面全体に視線が行くのは何故なのだろうか、と少し気を引いた見方になったけれど。
 聖母は頬から観ると10代後半に見えるが、母としての慈愛に満ちながら、それに溺れない賢さを持つ両目から観ると25歳前後に見えてくる。一般に10代後半が太く肉付きのよい手になるので、そのようにも観える。毛布のような緑青のストールと単色に近いスカートに阻まれて、顔と手しか聖母の年齢を推測する条件はなかった。


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