雨水が樋に跳ねる音が聞こえた。
何時から此処に居るのか思い出せない。
何時まで此処に居るのかは考えることを既に止めている。
薄暗い湿った部屋の中で与えられた毛布に包まって蹲る毎日。
わずかな明りの向こうに広がる一面のラベンダー、
ここに連れてこられた時なにやら詳しい説明を聞いた覚えがあるが
思い出せるのはロイヤルパープルという品種だということだけ、
その他は醜く歪んだ話者の陶酔しきった顔が浮び上がるばかり。
「ロ ー ズ」
どこかで声が響く。
これまでにも聞いたその声は、
キンモクセイ、ミント、オレンジ、ジャスミン、
バニラ、ミルク、カモミール、ピーチ、ライム。
声が響いた後、重々しく扉の締まる音がした。
ずるずると何かが引きずられるような音が聞こえ、
やがてそれは暗闇に溶けるように聞こえなくなる。
声が今までより近かったのが妙に気になる。
手が湿っているのがわかった。包まった毛布を力いっぱい握っていることも。
頭が少しぼうっとしていた。
実際、身体に良い環境なわけはないから体力は落ちているのだろう。
頭を膝で抱え込むようにゆっくりと蹲った。温かい。
しばらくぶりの温かさに誘われたのか思い出したことがある。
こんな薄暗く湿った広い空間がある特殊な場所なのに
どういうわけかありふれたものがやけに目立つ。
食事のトレイ、与えられる着替え、そしてこの毛布、
安価で良質を謳う量販店のタグがついていたりする。
おそらく識別名称なんだろう呼び名にしたってそう、
まるで芳香剤のような妙に安っぽい感じがしてならない。
どこかでバランスを取ろうとしているのか、
それとも今のこの状態がバランスのとれたものなのか。
いずれにせよ絶えず樋に跳ねる雨音が
じっと思考することを病的に苛んでゆく。
しかしあれは雨音なのだろうか、そう思ってふと気づいた、
――前は良く不思議と思うことを感じていたはずなのに。
毛布の柔らかさが無性に硬質なものに感じられた。
瞼に触れる手の甲には、もはや濡れる感触はない。
ことり、と何かが床に落ちた。
蹲ったまま眠ってしまっていたようで、その小さな物音で目が醒めた。
ほとんど明りなぞ入ってこない明り取りの窓の下に近寄り目を細めてじっとそれを見た。
壁と同じ色のそれは端から床に黒い染みを作り続けている、
人の、ゆび。
「ユ ズ」
久しぶりに見た明りらしい明り、それに照らされているのは醜く歪んだ笑顔。
連れてこられた時のことが何故だか急に思い出されてゆく。
雨水が樋に跳ねる音が聞こえる。
いおり