――その男が私の首を切り落とす。
夢で私を切り離すその男はよく知っている。
12年間も耐えたのに、もう一秒だって我慢がならないという風に、
オマエガ老イテユクノニ耐エラレナイ、そう言ってその男は去った。
彼が去ってから 私は容赦なく陽が差し込む時間に男と会わない。
うすく刻まれはじめた細い皺の一本だって男たちには見せてやらない。
自分の爪先も、男たちの顔も見えないような暗い部屋の中でだけ
私は切迫した臭いを放つ男たちのつるりとした背中に腕をまわす。
かつての恋人に復讐を果たしているみたいだ。
でも、もうずっと。 私はそうやって過ごしてきたんだし。
スプーン一杯の涙も流さないこの状況に満足しているもの。
アルコールがとろとろと注ぎ込まれたグラスをぼんやり見つめていると
電話が鳴り出す。
「春田センセー、千香だよ!」
受話機越しに茶化すような元気な声が聞こえて、
そうして姪はとりとめのない話を次から次へと繰り出す。
千香は算数と体育が苦手、でも国語と社会の成績はいいんだよ。
友達がね、おばさんの授業は楽しくて好きって言ってる。
姪の些細な話を聞くともなしに聞いていて私は癒される。
彼女が、私がずっと昔に放棄した人生に積極的に関わる、
ということを代わりにやってくれているような気になって。
「千香? ちょっと待って。 シュザンヌが外に出たがってるから」
しわしわの声で鳴くシュザンヌを出してやろうとベランダを開けると、
どこからか温かい食卓の匂いが漂ってくるのと一緒になって
ふんわりと夜の空気が忍び込んで部屋に充満する。
私は幸せだし不足してるものなんてない。 そう思った。
――窓から歩道を見下ろすとつやつやと輝く女の子がふたり。
「奈緒、さっきは泣かせちゃってごめんね?」
「ホントにねー、どうせだったら男に泣かされたいけど」
ふたりは歩きながら秘密を共有した者同士のようにくつくつ笑う。
「で、石沢君と高志君はどうするの?」
「わかんない...今は何も考えられないし考えたくないよ」
「でもいつかは結論を出さなくちゃいけないんだよ」
「んもう、さっきからあたしのことばっかり、チガヤこそどうよ?」
チガヤは曖昧にふっつり微笑んで答えない。
携帯を持ち始めて、髪型だって変えてきれいになったチガヤ。
なんだか眩しいチガヤ。 あたしが知らないチガヤ。
こんなに近くにいて、彼女が変わっていく過程に気が付かなかった。
奈緒はそんなことを考えてどうしようもなく寂しい気持ちになる。
あたしは、あたしを思ってくれるひとたちを蔑ろにしすぎじゃない?
「ねえチガヤ? 本当のあたしって良くわからないけど、
でも本当のあたしを知ってるとしたら、チガヤしかいないと思う」
「なぁに、奈緒ったら急に気持ち悪いよ」
「でもホントにそう思うし。 男なんかどうでもよくなってきた」
「ひどいなぁ、石沢君と高志君に失礼じゃない?」
「そうだけど、考えるのは後でもできるしね」
奈緒はチガヤの腕を取ってすこし揺さぶるようにする。
「時間まだ大丈夫でしょ? もう一軒、飲みに行かない?」
「あ、あたし近くのいいところ知ってる、奈緒も好きかも。
このあいだ同僚と一緒に来たんだけどね、安くて雰囲気もいいし」
「じゃあそこにしよう、あたしが奢るから。 ね?」
奈緒は自分で提案した計画に心から楽しくなってしまう。
「今日は男のことなんて忘れて飲もう!」
チガヤもすこし高揚して話し込むのに夢中で、
前方から携帯を手にした女の子が歩いてくるのに気が付かなかった。
彼女たちは俯き加減で歩いてきた華奢な女の子とすれ違う。
――上野さん、いいひとだったな。
かなは駅まで送ってくれた上野のことばかり考えている。
上野さんといっぱい話しちゃった。
送ってくれたお礼のメールを送ってもいいかな?
メールアドレスは教えてくれたけど、本当に送ったら迷惑かな?
上野さん、メールは苦手って言ってたけど...短かったらいいかな?
お礼のメールだもんね、きっとすごく嫌がられたりはしないよね?
べつに上野さんとどうこうなりたい訳じゃないんだし。
そういえば、自分からメールアドレスを聞いたことなんてなかった。
男の人と話すのがあんなに楽しかったのも初めてかもしれないな。
あたしはいつも遠巻きに見てるだけで関わるのが怖いから――
でも、あたしが外に出てけばみんな普通に良くしてくれるし
バイク便の石沢さんとも普通に話せた。
かなは携帯の画面を睨みながら圧倒的な事実に思い当たった。
あたしは、きっとメールやネットに依存しすぎなんだ。
モニタを通してひととやり取りをすることに慣れすぎちゃった。
<たろ>さんはそんなこと思わないのかな? あたしだけかな?
<たろ>さんと話してるのが本当はいちばん落ち着く。
<たろ>さんて本当はどんなひとなんだろう?
あたしは<たろ>さんの何だろう?
<たろ>さんはあたしにとって何?
胸の奥で蝶が羽ばたいたようなくすぐったい感触。
生温かい風が優しく吹き付けて、
かなも、奈緒も、チガヤもしずかな夜空を見上げる。
一斉に咲いた夜桜の、花びらの隙間から藍色の空が広がり、
黄色い月が薄ぼんやりと浮かんで女たちを照らす。
春の透明な空気が女たちの側をそっと通り抜けていった。
※次回の更新は5月23日頃です