「これ、よかったらどうぞ」
差し出された水を受けとった。
彼、彼は確かあたしを崩れた缶詰の山から助けてくれた人だ。
今は簡易ベッドの向こうにある事務机のイスに座って雑誌を読んでいる。
色白で、線が細くて、切れ長の目。
まだ眩暈の余韻が残っているし、頭痛もするけど・・・。
薄汚れたロッカーに黄ばんだ壁紙、壁一面に貼られたシフト表や特売のチラシ。
更衣室兼仮眠室、といったところだろうか。
お世辞にも居心地がいいとは言えなかった。
「あの、あたし、帰ります」
彼が雑誌から顔をあげた。
「もう大丈夫なんですか?」
「はい、あの、いろいろとごめんなさい」
「じゃ、俺バイト終わりだし、外まで送りますよ」
一人でいいのに、そう思ったけれど
彼の意外に長い睫毛に気をとられて断るタイミングを逃してしまった。
胸に名札がついている・・・上野さん、か。
「本当に大丈夫ですか?家まで送りましょうか?」
「いえ、あのほんとに大丈夫です」
「だったらいいんですけど・・・」
「ごめんなさい、あの後、大変だったでしょう?」
「え?あ、ああ、でも意外と軽かったし、全然平気でしたよ」
「・・・意外と?」
「いや、あの、軽かったです」
「えっと、缶詰のコトじゃなくて?」
「え、あ、俺てっきりあなたを運んだ時の話かと」
フッ。
2人同時に軽く笑った。
従業員専用の入り口を抜け、スーパー裏手の駐車場へ出た。
そろそろ西日が差し始めた空。
「意外と軽かった、ってどうゆうイミですか?」
「や、ほんとに軽かった、です。めちゃくちゃ」
「嘘ばっかり。あーあ、ダイエットしなくっちゃ」
「そんな必要ないですよ、そのままでいいって」
「いいもん、フォローしてくれなくたって」
「フォローじゃないってば、かわいいって、ちゃんと」
「ちゃんとぉ!?・・・あれ」
「・・・え?あ、メールだ」
かなは気づいた。
突然、彼との会話を楽しんでいる自分に気づいた。
ポケットから携帯を取り出し、無表情にメールを読んでいる彼。
線の細い彼の横顔、今は伏せられた切れ長の目と長い睫毛。
いつのまにか頭痛も治まり、体中に暖かさが戻っている。
「・・・メール?」
「あ、うん。俺、夜居酒屋でバイトしてて、そこの仲間でね。
やたらとメール送ってくる奴がいるんだ。大した用もないのにさ」
「上野さんのこと、好きなのかな?」
「え?あ、名札見たんだ?・・・あんまり好かれたくはないね、男だし」
「それに・・・メール自体、あまり好きじゃないんだ」
思いがけない言葉に、かなは言葉を失った。
今まさにメールアドレスを交換したい、と思っていたのに。
「えーと、本当にもう大丈夫ですか?」
彼の口調は、また敬語に戻ってしまった。お客さんと、従業員。
いや、おそらくバイトなのだろう。
これから居酒屋のバイトだろうか、それとも家に帰るのか、遊びに行くのか。
上野、名前は何ていうんだろう。
年はあたしより少し上かも知れない。
首元のくたびれたボーダー柄のシャツが、縦落ちのジーンズによく合っていた。
あのシャツ確か・・・
「あの、そのシャツって、ユニクロ?」
「え?これ?そうそう、俺ユニクロばっか買ってるからさ」
「安いし、かわいいのあるもんね。それ、色違い持ってる」
「あ、そうなの?・・・えーと、もう大丈夫そうだね?」
「・・・ううん、大丈夫じゃないかも」
「え?」
「送って、ください」
彼は少し笑って”じゃ、ちょっと待ってて”と答えて店内に消えた。
メールやチャットでしか男の人とマトモに話せなかったあたし、今日は違う。
そういえばこの前、バイク便の石沢さんって男の人とも話せたんだ、
だけどこんなに普通に、ううん積極的に、会話できたのは初めてかもしれない。
ああ上野さんが戻ってきた。
「お待たせしました、行きましょうか」
いつも待ち合わせに使うカフェの、いつもの窓際。
チガヤはいつものように先に来て、本を読んで待っていた。
ただ、いつもと違うのは―
「お待たせ、どうしたのその髪!?驚いた!」
もう長いこと変わることのなかったチガヤの真っ黒で長い長い髪。
今は少しピンクがかったブラウンに染められ、肩のラインで揺れていた。
「あ、奈緒。・・・あ、初めて会うんだっけ、髪切ってから」
「うん、すごく華やかでイイカンジ」
「そう?もう1ヶ月くらい前に切ったのよ」
「あれ、そんなに長いこと会ってなかったっけ?」
一瞬なにかいいたげな表情をしたチガヤは、けれども黙って本を閉じた。
今日の会社での他愛のない出来事などを話しながら、アイスコーヒーを注文する。
すぐに運ばれてきたそれを飲みながら、あらためてチガヤの姿を眺めた。
・・・なんか、キレイになった
「何?どうしたの?」
「ね、チガヤ何かあった?すごくキレイになった気がする」
「はぁ?何言ってるの奈緒ってば、コーヒーごちそうして欲しいワケ?」
「ううん、茶化さないで、絶対何かあったでしょ?」
何かって言われてもなぁ
苦笑するチガヤがよそよそしく感じられる。
何か、何かが違う。
違和感を拭いきれないまま行き付けのバーに場所を移し、昨日の出来事を話す。
楓志に好きな女ができたらしいこと、
高志の目の前で「彼氏なんかいない」と言ってしまったこと。
「あたし、石沢君が好きになったって女の子に嫉妬してるみたいで」
「え、高志君はどうするの?」
「・・・今は何も考えてない」
「ねえ奈緒、怒るかもしれないけど」
「え・・・?」
「あたし今日はちゃんと話をするね、奈緒。きっと奈緒のためになる思うから」
そうしてチガヤは話し始めた。
誰かに本当に愛されたいと思うのなら本当の自分を見せなくちゃダメ。
今の奈緒はイヤなこと面倒なことを嫌って自分の都合のいいように体裁を繕ってばかりじゃない。
石沢君が知っているのはサバサバとした大人の女の奈緒、
高志君が知っているのは自由奔放なかわいい奈緒、
あたしが知っているのは気まぐれだけど人なつっこい奈緒、
いったい本当の奈緒はどこにいるの?誰が本当の奈緒を知っているの?
視線が手もとのグラスから動かせない。
チガヤの言っていることは、きっと正しいんだろう。
誰にでも好かれたい、よくみられたいと思っているのは確かだ。
本当のあたしを知ってる人、そんな人いるだろうか?
どこか近くで携帯が鳴りはじめた、どこかとても近くで。
驚いたことにチガヤがバッグから携帯を取り出し、電話には出ずに切った。
チガヤ、携帯買ったんだ、知らなかった。
― 知らなかった
知らなかった、チガヤが髪を切ったこと。
知らなかった、石沢君に好きな子ができたなんて。
知らなかった、高志君があの居酒屋で働いていたなんて。
知らなかった、高志君があんな苦しそうな顔することがあるなんて。
高志君、嘘をついてたあたしに「自分のこと信用して話してくれ」ってメールくれたっけ。
あの時、あんな苦しそうな顔でメールを書いていたんだろうか。
あたし、高志君にあんな顔させたくなかった。
あたし、今初めて高志君のことを心から想っている。
「・・・チガヤ、ありがとう、ごめんね」
「うん、え、奈緒泣いてるの!?」
「うん、いいの気にしないで、チガヤ、ありがとね」
「・・・ごめんね」
「ううん、嬉しい、チガヤが友達でよかった」
「やだもう、お願いだから泣くのやめてよ奈緒」
「チガヤ、あたし、変わる。変わるから、だから、」
嫌いにならないで ―
※次回の更新は5月18日頃です