奈緒が楓志を知ったのは、4年前のちょうど今くらいの時期だ。緑色の濃さを増した桜の葉が、爽やかな春の風にそよぐ4月の終わり。初めて会ったときのことを奈緒はいまだにはっきりと覚えていた。
多摩川の河川敷にあるグラウンドで行われた練習試合を見に行ったとき、恋人とキャッチボールをしていたのが楓志だった。恋人が奈緒に気がついて手を上げると、楓志は人懐こい笑顔を奈緒に向けてぺこりと頭を下げたのだった。大学に入学したばかりの楓志はその面影に高校生の幼さを残し、身体の線も細かった。「子犬みたいだ」奈緒は柴犬の子犬が尻尾をぱたぱたと振る様子を思い浮かべた。
楓志は気の利いたジョークを言い、よく声をあげて笑った。誰にでも好かれる素質があった。もちろん奈緒も奈緒の恋人も、楓志が好きだった。
一年半がたった秋に奈緒は恋人と別れたが、その後もときどき楓志に電話をかけたり、飲みに誘ったりした。楓志は子犬が急速に成長するように、少年から青年へと変わっていった。楓志の腕が次第に太くなっていったこと。短かった髪が伸びて、それが意外に柔らかかったこと。楓志がクラスメートの女の子に失恋をした日に自棄酒をして、二日酔いで次の日の部活を休んだこと。奈緒は楓志のことならたいがいのことを知っていた。
今、奈緒は大学の正門前で楓志を待っていた。前日の夜に電話で楓志を誘っていたのである。楓志を待ちつつ、「恋人を待っている気分だわ」と思ってから、奈緒はなんて馬鹿なことを考えているんだろうと恥ずかしくなった。ちょうどそこへ楓志がやってきた。久しぶりに会う楓志の顔は精悍さを増して眩しかった。
「久しぶりじゃない」
奈緒は言ってから、楓志に熱くなった頬を見られないよう、少し顔をそむけた。
週末の居酒屋は、新歓コンパの学生やサラリーマンたちでにぎわっていた。オーダーの嵐に、厨房の中ではアルバイトたちがてんてこ舞いになっていた。
店員の中で少しだけ歳の長けた上野高志は、店長の肩書きを与えられていた。店長といっても所詮はアルバイトである。彼に与えられるのは、少しばかりの店長手当と、ぎゅうぎゅうに詰め込まれたシフト、それから胃が痛くなるほどの責任だった。アルバイトの粗相があれば高志は飛んでいってひたすら平謝りし、「お客様は神様です」と店内に貼られたありきたりな社是の通り、泥酔した客のいちゃもんを黙々と聞いた。だから高志は、込みあっている週末の夜が一番嫌いだった。
入り口の暖簾から覗いた顔に、見覚えがあった。高校時代の同級生、そして大学のクラスメートでもある楓志だった。
「おっ、高志。おまえここで働いてるのか」
「ああ」
にこりともしない高志に向けた楓志の人懐こそうな笑顔はどこまでも爽やかで、高志は自分の気持ちが萎縮するのを感じた。
楓志と高志は、高校の同級生だった。卒業と同時に、楓志はやりたいことを見つけるんだと言ってシアトルへ発ち、大学受験に失敗した高志は上京して、風呂なし4畳半のボロアパートに下宿しながら予備校に通った。翌年、靜鳳大学の合格通知が届いたのと同じ頃に、楓志からエアメールが届いた。じめじめとして黴臭い北向きの部屋で、高志はエアメールの封筒を手で破いた。入っていた写真には、ハイウエイのガソリンスタンドをバックに大きなバイクにまたがっている楓志の姿が写っていた。男の高志から見ても、それはかっこよすぎた。
楓志はそれからまた半年後に帰国し、高志の大学へ入学してひとつ後輩になった。そしてこの3月に高志が留年をし、二人は高校のとき以来再び同級生になったのだった。
楓志は店内を見回し、栗色の髪をかきあげた。
「こんでるな、無理か?」
「カウンターなら空いてるよ。一人か?」
「いや、二人なんだけど」
楓志の後ろから覗いた顔が一瞬にしてこわばった。高志は口ごもってから、「いらっしゃいませ」と声をかけ、二人をカウンターの端の席へ案内した。
高志はカウンターの中で、奈緒の注文したジントニックを作った。明らかに自分を警戒している奈緒の様子に、胸が苦しくなった。ジンの分量を少し多めにしたのは、奈緒に楽しんでもらいたいという気持ちからだった。
ふと見ると、厨房の隅で、新入りの山本太郎が携帯をいじっていた。
「お前何やってんだ?」
高志がふくらはぎのあたりを蹴ると、太郎はびくっとして携帯をエプロンのポケットにしまった。
「バイト中の携帯は厳禁だって言っただろう」
「すんません」
「携帯はカバンにしまって来い。戻ったら手を洗えよ」
メールで知り合った女の子に惚れていると、太郎から聞いていた。騙されているんじゃないのかと高志が言うと、彼女はそんな子じゃないと、太郎は真剣な顔で否定したのだった。高志は太郎の気持ちをからかうつもりではなかった。ただ、まっすぐに人を好きになれるのがうらやましかったのだ。
高志は、奈緒が好きだった。奈緒に対する気持ちには自信があった。しかし今はその自信も、楓志の爽やかな笑顔と、楓志を隣にして楽しげな奈緒を前にして、しぼんでしまうのだった。
「その後、好きな子できたの?」
いつもその質問をする自分に、奈緒は嫌気がさしていた。あいさつみたいに聞きながら、探りを入れている自分に気がついていた。そして「いないですよ」という楓志の返事に安堵する自分がいた。
しかしその日、「好きな子は?」と聞かれた楓志の答えはいつもと違った。グラスを回しながら、楓志はかなと呼ばれた女の子のことを思い出していた。
「どうなんだろう、好きなのかな?好きなのかもしれない」
「え?」
「守ってあげたいと思うのは、好きになった証拠なんですかね?」
そう口に出して言ってみて、楓志は自分の気持ちに気がついたのだった。自分は確かにあのかなという子に惚れていると、楓志は思った。2年前の失恋の痛手から恋という言葉には近づかないようにしていた自分が、今その恋という言葉に飲み込まれようとしていた。
奈緒には、楓志の言っていることがわからなかった。楓志が自分の知らない女のことを話していた。
「弱くて消えちゃいそうな子。一度会っただけなのに、俺が守ってあげられたらって思うんですよ」
グラスの氷を見つめている楓志の目は優しく、そしてそれはいつ見たよりも自信に満ちて輝いていた。奈緒の胃の辺りがふつふつと熱くなった。酔ったせいだと、奈緒は自分に思いこませようとした。
「へえ、よっぽどかわいい子なのね。見てみたいなぁ」
「この間バイク便で行ったヴァクスって編集プロダクションの子だよ。かなって言うんです」
名前なんて聞きたくないと思いながら、奈緒は楓志が好きになった「かな」という女にこの上ない嫉妬を感じていた。
「いいわね。私も身を焦がすような恋をしたいな」
「あれ、奈緒さん彼氏できたんじゃないですか?」
「え、何それ?彼氏なんているわけないじゃない」
笑いながら楓志の肩を叩いた奈緒の胸の中に、寒々しいものが流れた。どうして私はうまく愛せないのだろう、どうして私は愛されないのだろうと思った。背中を向けている高志の耳にも、自分の言葉はきっと届いただろう。高志は傷ついただろうか。高志が傷ついたと思うこと自体、自分の思い上がりに思えた。奈緒は笑っている自分が情けなくて泣きたくなった。
「死ぬほど恋い焦がれるような恋、恋い焦がれて死んでしまうような恋って、あるのかな」
楓志がぽつりと言った。その言葉に、奈緒は胸を絞めつけられて眩暈がした。
カウンターの中で、高志もまた同じ思いをしていた。奈緒を思いつづける自分の存在は、奈緒にとってはまったく無意味なものだった。見返りを期待しない愛なんて無理だ。二人に背を向けた高志は、「彼氏などいない」と言いきった奈緒の言葉に、自分の気持ちが急速に冷めていくのを感じた。そしてその隣には、思いがけずかなの名を耳にし、楓志を鋭く見つめる太郎の姿があった。
缶詰に描かれた黄桃の絵を正面に1ミリもずらさないように、丁寧に積んでいく。深緑色のバックに浮かび上がるだいだい色の球体。高志がひとつ缶詰を積めば、だいだい色の球体もひとつ増えるのだった。
特売品の黄桃の缶詰を積み上げる作業に、高志は没頭していた。単純な作業は、高志の精神を研ぎ澄ませていく。
高志はその中に、詩を見出そうとした。深緑色の大海原に反射した橙色の月光は、波に揺られて散り散りになって・・・・・・
―――死ぬほど恋い焦がれる恋って、あるのかな。
楓志の言葉が、高志の想像をかき乱した。奈緒を想う気持ちは誠実で一途だと、高志は思ってきた。しかし昨夜の奈緒の言葉に、その自信はもろくも崩れ去ったのだ。そしてそれは、奈緒を想う気持ちの存在さえも、不確かなものにしてしまった。
高志はそこで手を休め、缶詰の塔を眺めた。足元にはまだ3ケースの黄桃の缶詰が並べられるのを待っている。ため息をついて目を離したとき、一人の女が高志のほうへ近づいてくるのが目に入った。
かなは左腕に買い物かごを提げ、右手に携帯電話を握っていた。かなは「たろ」にメールを打つのに夢中で、彼女の進路が通路から外れてきているのにまったく気がついていなかった。
「たろさん、私、好きな人ができたかもしれない」
かなはためらいつつ送信ボタンを押した。そして顔を上げたとき、彼女の目の前には深緑色の塊が迫っていた。かなが「あっ」と声をあげたのと、彼女の足がその塊に突っ込むのは同時だった。缶詰の塔は、派手な音を立てて崩れ去った。
かなは放心した様子で床に座り込んでいた。高志が慌てて近寄り「大丈夫ですか?」と声をかけると、ようやく気がついて、「ごめんなさい」と消え入るような声で言った。かなは真っ赤な顔をして涙をいっぱいにためた目で高志を見た。高志の胸がきゅんとなった。かなの腕から血がにじんでいた。高志はエプロンのポケットからバンソウコウを出した。何かのためにと思ってエプロンのポケットにバンソウコウを入れておいた自分を、こんなに賢く思えたことはなかった。
「血が出てますよ」
高志はそう言って、かなの細い腕をとった。そのとき、かなの身体ががくりとなり、高志の胸に崩れたのだった。高志は驚いて、かなの肩を揺さぶった。その顔は蒼白になっていた。かなは意識を失っていた。
「お客さん?! お客さん?!」
※ 次の更新は、5月9日頃です。