ものかき部

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奇妙な指名/白い傷跡
2002年04月14日(日)

 ピルケースを小刻みに振って、3粒のフリスクをてのひらに載せた。冷めた目でそれをしばらく眺めた後、何かを諦めるように口へ運んだ。
 相変わらず――不味い。こんなもの、美味いと思えたことは一度も無い。ミントの爽やかな香りと味は、今日の天気のように爽やかなオレの心を実に不快にさせる。だが、眠気は覚める。居眠り運転をしてしまい、光り輝くあの世へと自分の命を30分以内に配送することを考えれば、しばらくはこの味に我慢するしかない。昨日もまた、眠れなかった。
 缶コーヒーの残りを飲み干した。休み時間は終わりだ。今日は、21時から観たい番組があるから、残業はナシだ。規定終了時間の18時。それまでに本数をこなしておく必要がある。オレはオイルタンクの上に地図帳を広げて、次の配送先を確認した。頭の中で目的地への最短ルートを割り出し、記憶する。
 首から下げた携帯がX Japanの「Rusty Nail」のサビを鳴らした。事務所からだ。
「はい、お疲れさまです。石沢ですが」
「ああ、石沢くん? 宮内ですが。お疲れ様です。あのさぁ、キミさっき・・・16時半頃だと思うんだけど。四谷三丁目のヴァクスって事務所で書類入った封筒もらったでしょ?」
 ヴァクス――かなという女の子の顔が浮かんだ。
「ああ、あそこのやつなら届けましたよ。ついさっきカドカワに」
「そうだよね。キミ行ったよね? 編プロの。ヴァクス。そこにまた戻って欲しいんだよ」
「えっ? オレが? どうして・・・でしょう」
「知らない。なんかキミを指名してんのよ。石沢ってキミしかいないしさぁ。変なことやっちゃった?」
「・・・いえ?」
「そうだよなぁ、キミのことだから配送中のトラブルじゃないと俺も思ったんだけどね。でも“割り増し”取っちゃったからさ、とにかく行ってあげてよ。ヴァクスの前の公園に一人、ウチのライダー待たせてあるから、今運んでるやつはそいつに渡していいから。頼むね」
 ――電話が切れた。
 わけが解らない。オレは地図帳を後部座席のパケットに突っ込むとシートに跨った。
 急ぎなのは解っていたがマルボロに火を点ける。紫煙が目に入った。アクセルを吹かす。咥え煙草のまま、流れの速い道路に合流して顔にかかる煙を飛ばした。
 配達先からのご指名――初めての出来事だった。


-*-

「編集長――煙草、買って来ました」
「あっ、ご苦労様。これ、お金ね、ありがとう」
 長い髪を後ろ手に結び終えると、袴田はデスクに置いておいた五百円玉をかなの前に差し出した。
「ごめんね、かなちゃん。お使いなんか偉そうに頼んじゃって」
 待ちきれないように袴田はマイルドセブンのビニールを破る。デスクに座り直すと嬉しそうに煙草を咥えた。
「いえいえ。ついでですから」
 机上の五百円玉を静かに受け取ると、かなは微笑んだ。
「あたしってこういうとこ無頓着でさー。ダンナにもよく言われんのよ。自分の煙草ぐらい常備してろってね」
「あはは」
「今ちょうど、みんな外に出てて居ないから訊くんだけどさ・・・」
 かなには、袴田の話し方から結末が予想できた。
「昨日の話は考えてくれた?」
 袴田は金縁の眼鏡の向こうから愛くるしい瞳で、かなを見つめた。
「ちょっと・・・もう少し考えさせてください」
 袴田の前に立ったまま、かなは声を絞り出して答えた。 
「そう? あなたはね、自分で思っているよりもすごく真面目で優秀な人材だわ。目が回るくらい忙しいこの会社でとても頑張ってくれてる。私にはそう見えるの。待遇の面だって今よりもずっと良くさせてもらうし」
「それは・・・すごく嬉しいです。編集長のお話は本当に嬉しかったです」
「うん。悪い話ではないと思うんだけどね。ねぇ、口うるさいこと云っているかも知れないけど、フリーターっていう職業は社会には無いのよ。知ってる?」
「ええ。あたしも、一生アルバイトのままでいるつもりは」  
「でしょう? 何か・・・夢でもあるのかしら、他に。まだ若いんだし、それはべつに構わないんだけど」
 かなは黙っていた。それしか、出来なかった。
「・・・男の人はこのオフィスには、いないじゃない」
 見透かしたように袴田は云った。
「幸いにもウチは女性誌の編プロだし。私自身も女性の意見だけを盛りこんだ誌面を売りにしていきたかったから、そうしていったんだけどね。どう? そう言う面では、かなちゃんも働きやすかったんじゃないのかしら」
 そのとおりだった。かなが一つの仕事を一年も続けてこれたのは、この職場が初めてだった。マクドナルド、ファミリーレストラン、割烹――高校時代のアルバイトは散々たる結果だった。
 ――かなの携帯から短い発信音が鳴った。
「メール? 大丈夫かしら?」 袴田は訊いた。
「すいません! 音、消すの忘れてて」
「・・・そのメル友さんは男性?」
「そう・・・です」 顔を赤くしながら、かなは答えた。
「あら、そう?」
 袴田はしたり顔をして微笑んだ。
「いいのよ。たとえメールからでも、少しずつ男性に慣れていってほしいし。オンナの生きる楽しさってのを、これからいっぱい知っていけばいいわ」
 かなは、自分のデスクに戻った。
 メールを開く。
 メル友の≪たろ≫からのメールだった。
 嬉しかった。
 ≪たろ≫は20歳で、かなよりも一つ上だったが、敬語を使ったことなど一度も無かった。メールでは、かなは物怖じをせずに男性と話が出来た。早速、いそいそとレスを書き始める。
「そういえばさ、一時間前くらいに来たバイク便の兄ちゃんとは、かなちゃん、恐がらずに話せたじゃん。どうして?」
 袴田はキーボードを叩きながら何気なく訊いた。
 携帯のボタンを押していた、かなの動きが止まった。

 そうだ――。
 
 どうして――あの人だけ、恐くなかったんだろう。
 どうして――あたしは男の人とまともに話せないんだろう。
 どうして――あたしは、こんなにもダメなんだろう。
 どうして――。

 どうして――。


 どうして――。
 
 突然、目の前が白くなった。

「かなちゃん? かなちゃん!!」
 袴田が叫びながら近づいていく。かなの肩を大きく揺さぶる。
「かなちゃん! 起きて! かなちゃん!」

 椅子から転げ落ちたかなは――床にひれ伏したまま、微動だにしなかった。

次回の更新は4月24日頃です。
 


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