長い長い夜の終わり。閉じるドアのすきまにのぞくシロタの泣き笑いの顔は、きっと私の顔の映し鏡だろう。 梅雨はざまの朝はきらきらと清らかで、ワンルームの部屋から出た私の目にしみた。 私は顔を上げ、胸をはりいつもより少し大またで203号室をあとにした。 先週まで私が住んでいた2 0 2号室はまだ空室で、名前も空白のままだ。でもそれも、つかの間のことで、すぐに次の住人が暮らすようになり、私がいた名残などすぐに消えてしまうだろう。
22時30分。 勝手知ったるシロタの部屋を私はずんずん中へ入っていった。
「シロタ、ごめんね。また荷物預かってもらっちゃって。おじいちゃんにまだ新しい部屋の住所教えてなくって…」 ワンルームのソファには、バイトから帰ったばかりでちょっとくたびれたシロタがいた。 「由子、このトマト、チョー美味いよ」
大人のこぶしほどの大きさの熟したトマトをほおばり、シロタが言った。
「ええ!信じられない。また勝手に人の荷物開けて!」
「まあまあ、そう怒るなって。おじいちゃんだって、こんだけおいしく食べてもらったら送り甲斐もあるってもんじゃない?」
シロタは鷹揚に笑い、なおもほおばり続ける。
私はこの屈託のない笑顔をたまらなく好きだと思う。 冷たい夜の中から柔らかな羽毛布団に飛び込んだみたいに、安心で、じわあっとあったかいものが広がって、私は泣きたい気持ちになる。
「シロタ……好き」
シロタと私は入学したときにたまたまアパートの隣同士になった。同じ大学の同じ学部ということもあり同じ講義が多く、親しくなるのに時間はかからなかった。そして、私たちの部屋は、似たような境遇の仲間たちのあつまる居心地のいい基地のようなものだった。 2度目の春が来て、シロタがバイト先で知り合った女の子を彼女にした。それは突然で誰もが驚き口をそろえてこう言った。 「シロタは由子が好きなんだと思ってた。」 私は「えー、そう?」と、意外そうな顔を作ったけれど……。 ワタシダッテソウオモッテタヨ。
そして、私は引越しを決めた。 遠くないいつか、シロタの彼女は私たちの基地にやってくるだろう。もしかしたら私たちの一員になろうとするかもしれない。 それは、彼女を遠くで妬み、うらやむことよりも、ずっとひどく私を痛めつけることだから、私はそれを恐れて逃げ出したのだ。彼女の顔が見えないところへ。
「シロタ……好き」 トマトをほおばる横顔を眺めていたら口から自然にこぼれ出てしまった。あんなに言えずにいた言葉だったのに。 シロタはトマトを口から離して、真ん丸な目を私のほうに向けた。 「ずっと、ずっと好きだった。言えなかったけど。 でも、もうあきらめるから。記念に言ってみただけなの。 やだ、ちょっと、そんなに衝撃的な告白だった?凍りついちゃってるよ」
わざと茶化すように言ってみたが、シロタはまだ凍りついたままだ。
「知らなかった。 ……僕も由子が好きだった。」
シロタが私を好きだった…。嬉しい気持ちが大波となって私に襲いかかったが、「だった」という過去形が私を現実にひきもどした。 呆然とするのは私の番だった。 シロタはみたこともないような深い悲しみをたたえた目をして告げた。 「でももう遅いよ。」 私の目からころん、と涙のひとつこぼれ落ちた。 「ごめん。気づいてあげられなくて。」
それから私たちは、たくさんの話をした。 主に二人の間にこれまであった出来事について。
冬にシロタの部屋で鍋パーティーをして、あまりの人口密度の高さに窓が結露して大変だったこと。試験勉強で徹夜をしていて二人して寝坊して単位を落としたこと。シロタのプレステ、シロタのソフトでRPGを一本クリアしたあの夏休みのこと。
そしていつも一緒にいたのに、小さな誤解や小心が二人をすれ違わせていたことを、あらためて知った。
ソファに二人、丸まって、少し眠ってはまた話した。 そして、朝日がカーテンの間から射しこむ頃、どちらからともなくキスをした。いたわるような、優しいキスだった。
あたりの家々から、朝餉の匂いが流れてくる。トーストの匂い、味噌汁の匂い。 家々からは新しい一日に向かって、人々がさっそうと駆け出してくる。 私は背広にごみ袋を手にしたおじさんに、涙にぬれた頬を見られないようにぐんぐんペダルをこいでいく。 加速するほどに新しい風が私をつつみ、清冽な光の矢が目に飛び込んでくる。まぶしい。 7時3分。 早く私の新しい部屋へ帰ろう。シャワーを浴びてこの涙をきれいに洗い流してしまおう。そして、9時には大学へ行き、シロタに、愛すべき人々に「おはよう」といつものように笑おう。
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