2006年01月24日(火) |
伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』 |
伊坂幸太郎は、きっと三島由紀夫の『奔馬』を読んでいるな、と、思いました。
根拠その一 両者とも大学の法学部卒業という共通点。
根拠その二 「三島由紀夫の小説に「法科が厄介なのは二年目だ」とあったのどこかで信じていたのかもしれない、。」という箇所があった。
根拠その三 「「死んでも生まれ変わるだけだって」 あまりに美しい日本語に、私は誇らしい気分だ。 気がつくと、景色は全部、消えていた。わたしの周りには何もなくなっている。 夢か、と思う一方でわたしは、これは未来の物語なのかもしれない、と想像した。 何らかの手違いで、意識が消えようとしているわたしの目に、何年後かの場面が垣間見えてしまったのではないだろうか。それくらいのボーナスがあってもいい。 もしそうだとすると、とわたしは考える。そうか、わたしは近いうちに、死んだドルジと再会することができるのではないか。そういうことにならないか。生まれ変わりには準備期間というものがあるらしいし。」 これ、『アヒルと鴨』の一節。
対する『奔馬』の一説 「清顕が十八年前、「又、会うぜ。きっと会う。滝ノ下で」と言ったとおり、本多は正しく滝の下で、清顕と同じ箇所に三つの黒子の目じるしを持った若者に会った。それにつけても思われるのは、清顕の死後、月修寺門跡の教えに従って読んださまざまな仏書のうちから四有輪転について述べられた件を思い起すと、今年満で十八歳の飯沼少年は、清顕の死から数えて、転生の年齢にぴったり合うことである。 すなわち四有輪転の四有とは、中有、生有、本有、死有の四つをさし、これで有情の輪廻転生の一期が劃されるわけであるが、二つの生の間にしばらくとどまる果報があって、これを中有といい、中有の期間は短くて七日間、長くて七七日間で、次の生に託胎するとして、飯沼少年の誕生日は不詳ながら、大正三年早春の清顕の死から、七日後乃至七七日後に生まれたということはありうることだ。」
ね? そうじゃないかなあ。
私は伊坂幸太郎を初めて読んだ飲んだけど、なんだか読みにくいなあという印象。 複数の場面が少しずつそれぞれに進んでいって、最後につながりが明らかになる、というのはミステリーのわりとよくあるパターンだけど、この手法も、話に入り込めない一因だな。 そして、文体。 すごく素人っぽいなあと、はじめのうちはそれが気になって気になって。 文は決してうまいとはいえないんじゃないかなあ。
登場人物も、それぞれ個性的で魅力的なはずなのに・・・生かしきれてないよ。 もうちょっと踏み込んだエピソードがあればと思われて残念。 ラストも、うすうす予想がついていたし。 今が旬の人なので期待していただけちょっと拍子抜けでした。
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