勿論、これらの再上映は、旧作を忘却から救い、シネフィル的作品が 難解さによって敬遠されること無く若者に観られたという啓蒙も果たしていた。 しかし、(私はもと映画館関係者なんだけれども)そういったセンスがいいとか 知的で洒落ているという、それまで若いサブカル女子の背伸びを促してきた宣伝も、 二〇〇〇年前後より効力を失い始め、集客が落ちてきた。 それは女子たちが「期待と違う」というパターンを読んだこともあるだろう。 またその頃より、ネット上では内側からの冷笑のように、 「コジャレ」という言葉がきどってスカしたものの蔑称として徐々に定着し、 隙の無いアート性やかわいらしさなどの、振幅を孕まない一義的なものは 無配慮に支持されることが憚られる暗黙のニュアンスが生じた。 そのためか、九〇年代半ばまでゴダールは勿論、アントニオーニや ジョセフ・ロージーの『唇からナイフ』のリバイバルなどは、 オシャレ広告戦略の陰に品の良いシネフィル的アート指向を感じるものだったが、 九〇年代後半より女子向けサブカルは徐々に主流を失い、 極端なバランスを保つように、裾野を広げてエロスや俗っぽさ、 悪趣味との緊密さを急速に帯びてくる。
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いまや流行は、いかにグッドセンスの裏をかくかなのだ。 けれど本質的に、その移行にある意味も、映画を観ることが自らの信奉する価値や スタイルの表明であることには、ゴダールの特集に通った九〇年代の文化系女子と あまり変化はないだろう。
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女子がネット上でソフト・コアなエロ映画などに言及し始めたのは、 ひそやかな分野への渇望と、悪趣味を面白がるスタイルと、 それをする存在誇示の結果にある。
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そうやってオシャレという区分を裏切り続けると同時に現在、 文化系女子は九〇年代に模倣していたような文化系女子のアイドルを手放した。
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ちなみに日本映画において、女子たちが最初に区分の裏切りを知ったのは、 特に私の世代で言うと黒沢清監督の存在は大きいと思う。 女性たちが始めて手にとったVシネは『勝手にしやがれ!!』シリーズということは 多かったろうし、シネフィル的映画作家と評される監督の映画を観てみたら、 ピンク→Vシネ→心霊ホラーで、でもどの映画でも独自性を湛えているのは、 カテゴライズの乗り越えとして象徴的だった。 そして女子が一律な価値観に恥や偏狭さを覚え、 常に自分の中に裏切りを抱えるようになる流動期の、 理想的両義性を孕んだイコンこそ哀川翔である。
★搾取から解脱まで/真魚八重子★
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