『世代』の「文化系男子」たちを特徴づけていたのは、 磯田光一の『世代』評の言葉を借りれば、 「自己を「喜劇的」にみるだけのダンディズム」であった。 旧制高校的「文化系男子」はおんなこどもを排除し軽侮していたと単純に考えてはいけない。 しかし、「自己を「喜劇的」にみるだけのダンディズム」が、自分たちと女たちとを、 あるいは自分たちと「一校オンチ族」 (単細胞的に自分たちのことをエリートやら異端やらと思い込めるような一校生) とを分けている、という自負があった。 「男子系文化」を無闇にありがたがる「文化系女子」と、 自分自身を実は醒めた眼で見ている「文化系男子」 (尊敬してくれる女がいるのは、もちろん悪くはないが)。
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夫を参らせるものとは、夫婦の秘密暴露につきものの若干の猥雑感や、 知的仮面を引きはがされた夫の生活無能力者ぶりと身勝手な幼児性では断じてなく、 (よくある話じゃないか)、にもかかわらず、あるいはだからこそ、「文化系男子」 としての夫への強烈な尊敬と愛情が透けて見えてしまうことである。 とりわけ矢川澄子は夫の「鼻の高い色白の美少年」ぶりと特権的才能への惚れこみを 堂々と披露した。 「でも最後まで[矢川澄子と同じように]冥王さんも柄谷さんに惚れてらしたんじゃない」 という言葉に、矢川澄子は「そのようね」と答えている(『ユリイカ』矢川澄子追悼臨時増刊)。 妻の愛情あふれる買いかぶりが世間に晒されては、例の「ダンディズム」を 互いに承認しあう「男社会」のなかに生きる夫は(詳述できないが、 澁澤も柄谷も自分自身を正当に位置づけできるほどに冷静な眼の持ち主である)、 いくぶん恥ずかしい思いをするのではないだろうか。 柄谷正人は、高橋たか子の小説のなかに「夫婦がお互いにライヴァルたらざるを得ない不幸」 を読みとっており、それはまた柄谷家の「不幸」でもあったのだろうが、 この「ライヴァル」意識もまた、夫への尊敬と買いかぶりから生じている。 冥王まさ子の自伝的小説『天馬空を行く』には、こんな妻の嘆きが記されている。 「誰もがもの書きとしての龍夫の才能を信じている。弓子だってもちろん信じている。 だからといって龍夫が弓子のことを軽視していいことにはならないのだ。」 この言葉は、フェミニスト風に、あるいは善意に解釈してもらえれば別だが、 そうでなければ、他人には、とくに「文化系男子」仲間には滑稽に聞こえてしまうから、 周りのことなぞ気にしないという「龍夫ちゃん」にとっても、やはり辛かろう。
★コレラ菌的考察/高田里恵子★
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