落語家の芸における質と量、その頃は、いや昔から質の芸人を重んじ、 逆に量の芸人を軽んじたが、一口に言やあ、そんなもの貧乏人の発想だ。 イデオロギーや哲学なんざァ貧乏人の趣味だ。 第一使うのは頭脳だけで、銭はかからないし、 あんなもの社会の発展のために何も役には立たなかった。 発展途上国の副産物程度だ。 ついでに言うと礼儀、作法、道徳なんてのも、それに等しく、 「協力を前提とした頃の社会の不文律」だ。 それなのに、寄席にひとときの夢を買いに来た客を追っぱらったその頃の文士達。 質と量は車の両輪だ、とも言わなかった。 「量は困ったもんです」と言わんばかりで、落語家自身も、 「今日はワル落ちをした」等、笑われたことを恥じていたのである。 どちらがいい、わるいの問題を言っているのではない。 現実を言っているので、現実は正解である。 質と量は両輪どころか、量が質を生かしてくれたのである。 だが、量を持つ芸人が他の世界にいってしまったアト、 質がその寿命を延ばしていたのも事実ではある。
★談志楽屋噺/立川談志★
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