毎年、いとうさん、奥泉さん、渡辺正己さんで仕事も兼ねて、 海に行くのが恒例になっているが、今年は台風と重なった。 海中は30センチ先も見えないくらいなのに、 いとうさんと渡辺さんはなんだかくやしくて 何も捕れないのを分かりつつも海へ入りひどい目に。
いとうさんはタコを突くのがああみえてものすごく上手。 奥泉さんは火おこし担当。
毎年、そうやっていとうさんたちがとったタコや魚やとこぶしを 海辺で焼いて食べる。
あんなに楽しいことない。 毎年この時の為に生きてるかも(二人で)。
その後、奥泉さん家族は旅館に泊まったけど、 いとうさんと渡辺さんはなんでかゴキブリが出るような、 連れ込みホテルに泊まることに。 その日はたまたまサッカーの試合がある日だったので、 いとうさんの部屋に渡辺さんが来て、二人で試合を観戦してしまった。
オリンピックもそうだけど、どうして 自分の国を応援してしまうのか。
いとうさんは今回のオリンピックを見ていて、 途中飲み物を取りに行く間、君が代を鼻歌で歌ってしまったことがあり、 自分でもびっくりした。
が、次の日、同じく鼻歌で今度はアメリカ国歌が出てきたので安心した。 いやなの二つだけど。
そういうのやだなぁっていうなんとなくな気持ちは自分の中にあるのに、 でも日本人が勝つと嬉しい。感動もした。
谷亮子選手ですら今回応援してしまった。 応援する要素はどう考えてもないでしょう? これはなんなのか(奥泉さん)。
僕は「柔ちゃん」とだけは呼ばないようにしてる(いとうさん)。 最近は「ヤカラ(輩)ちゃん」と呼ぶことで、自分を戒めたり。 応援する時も「ヤカラちゃんがんばれ!」とか言う。 そうすると対象が複数になるから良い。
そもそもそういう上手く説明できないような、 理由すらもないような気持ちほど、強固で動かしがたいものなのでは。 口でそういう自分を批評することは簡単だけど。
奥泉さんは「父子もの」に弱い。 映画の予告や宣伝文だけでも泣きそうになるどころか、 保育園で子供を見るだけでも。
いとうさんは「異能ヒーローもの」に弱い。 欠けているもの同士が集まって、ガチッとピースがはまって、 一つになった時にがーっと涙が出る。 「がんばれベアーズ」とか。
「泣き」っていうのは共同体が1回壊れて、 またもとに戻る時にぐっと感じるもの。 こういう話は昔々から本当に何度も何度も繰り返され、 パターン化されてるもののひとつ。
そこに「泣き」があるけど、そういうものに 泣きそうになるのはごく当たり前であって、そのように 「泣かせよう」とすることは本当に簡単。
ただ、そのパターンに忠実にそった話をもしも作ろうとしても、 絶対に「ずれ」というのは出てしまうんじゃないか(奥泉さん)。
僕は「物語」になるのがイヤで書くのを止めていたところがあるけど、 ただ何か書けば、どうしても「ずれ」は生じて、 パターンとは外れたものになる、ということですよね?(いとうさん) 勇気付けられる。
近代以前の「物語」は語り→聞くもの。 「小説」は書く→読むもの。
「語り」は一回性のもので、自分の今しゃべってることと自分がイコールしてたけど、 それを書くようになると、書いた自分と出来たものとでどうしても 「ずれ」が出てしまう。 し、残ってく可能性があるからには、その「ずれ」を自覚して 昔からあるパターン化された「物語」とはちがったもの、 いろんな感情がごちゃまぜになった、どう受け取っていいかわからないような 読むたびに受け取り方も変わるような「得も言われぬ」もの、 を作っていくのが「小説」では。
完全に「物語」の排除された作品というのも、 一時期そういう動きもあったけども、 いとうさんは面白いと思えない。
ドンキホーテの出だしの部分にいつも感動する(いとうさん)。 今までの「お話」がつまらないから、 自分がなべをかぶって出かけることにしたっていうのが、もうたまらない。 泣きも笑いもくだらなさも尊さもあるし。
島尾敏雄の「死の棘」も泣いていいのか笑っていいのかわからない。
大野一雄さんの踊りは「小説」のよう。 おじいさんが女装して踊ってるわけだけど、 観ていたら突然おかしくなって「ぷっ」と笑ってしまった。 がそのすぐ後に、だーっと涙が流れた(いとうさん)。
そういう小説を書きたい(二人)。 次回はそういう小説的なものを小説の枠を広げて もっと紹介したい。
で、最後に、奥泉さん(金色の蝶ネクタイ、革靴のかたっぽの紐がほどけてる) のクラリネット演奏に合わせて、いとうさんが冷静に的確に今日の話をまとめ。 この感じがまさに悲劇とも喜劇とも言えない「得も言われぬ」もの だから観て下さい。
★文芸漫談「泣き」/いとうせいこう×奥泉光★
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