何かひとついうにも、猫のことを持ち出さなくては先へ進めない、
自己愛のかたまりのような素性を持つ作家がいるが、そんな押し付けがましい文学も、
少数の人たちがつくる熱気に過剰にガードされる。
支配的な空気を容認しない人たち、つまり社会性のない人たちと結びついて
自己批判の契機を失うのだ。これでは衝突は起きない。論争もない。
新聞各紙の文芸時評もただの作品紹介に堕しているのは、見ての通りである。
波浪を嫌う世間に、文学が同調してはならない。
たとえば、ひとつの時代に複数の「作風」や「手法」はゆるされないと考えるべきである
(川上弘美と平野啓一郎が両立することは、きびしい時代ならありえない)。
するどいものは二つはない。その時代にひとつ。そのひとつだけだ。
もしも二つも三つもあるなら、それらが相互にたたかう。相手の世界に、ことばを投げつける。
それを文学というのではなかったか。文学は書くものではなく、動かすものだ。
★文芸時評11月号/荒川洋治★
■全文はここに。他の回も。 今回取り上げられてるのは、林京子さん、川上弘美さん、平野啓一郎さんの三人。 「猫」のとこでにやにやしてしまう時点で 「複数の『作風』や『手法』はゆるされない」 どころか、好きって平気で思うタイプってことなのに、 荒川さんの文芸時評を面白く感じるのは何でなんだろうとか思ってみたり。
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