「食べることが一番うれしいわ。おいしいものを食べるのがわたし一番好きよ」
◇
彼女の家へ曲がる横丁の所で私は急に「オッパイに接吻したい!」と言いました。
それがこんな場所で可能であるとか、彼女が許すとか、それら一切不明の天地混溟の有様で、
その言葉が、嘔吐でもするように口を突いて出てしまったのです。
すると彼女は一瞬のためらいもなく、わきの下の支那風の止めボタンを二つはずしました。
白い下着が目をかすめたかと思う間に、乳房が一つ眼前にありました。
うす黄色く、もりあがって、真ん中が紫色らしい。
私は自分がどのようなかっこう、どのような感情を保っているのかも意識せずに、
そのふくらんだ物体を口にあて、少し噛むようにモガモガと吸いました。
そしてすぐ止めました。
何か他の全くちがった行為をしたような気持、あっけない、おき去りにされた気持でした。
彼女は優しく笑って、「あなたを好きよ」と、ふり向いて言うと、姿を消しました。
◇
「あれは何だろうか、彼女の示したあのすなおさは何だろうか。あれは愛か」
と私は揺れる身体をわざと揺すらしながら考えました。
「もしかしたら、あれは、御礼なのではないか。とんかつ二枚の御礼なのではないか。
彼女はまるで食慾をみたす時そっくりの、嬉しそうな、また平気な顔をうかべていたではないか。
食べること、食べたことの興奮が、乳房を出させるのか。
ああ、それにしても自分は彼女の行為に対して、何とつまらぬ事しか考えつかぬことだろう。
まるで俺は彼女の乳房を食べたような気がする。
彼女の好意、彼女の心を、まるで平気で食べてしまったような気がする……」
友人の家にころがり込んでからも重苦しさはつづきました。
「食慾、食べる、食慾」と私はうつぶせになってうなり、それからすすり泣く真似をしました。
泣くのが下手な以上、その真似をするのが残された唯一の手段のように考えたからでしょうか。
★もの喰う女/武田泰淳★
■武田泰淳さんの本には、武田百合子さんがモデルになっているものがいくつもあるそうで、 これもその一つ(神保町の喫茶店ランボオで働いていた頃)。
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