|
|
■■■
■■
■ 叱られて……
彼女は「犬」である〜11〜
「K」からメールが来てからほぼ36時間経過。 一向に文面が決まらない。
家族と県内一泊旅行がすみ、また翌日は上の子どもの総合学習の取材に付き合って京都まで行くことになっていた。
あわただしい夏休み。
ついにしびれを切らしたいはらは、自分から電話をかけてよこした。
いつもなら、メールで「電話」というのがまず来て、わたしからかけるのに、だ。
「で、返事はしたの?」 「まだです」
「なぜ?」 「なんて書いたらいいかわからないんです」
「まだそんなことを言ってる。どうして?」 「だって、ほんとに何をどう書いたらいいかわからないんです」
「じゃあ、なぜ聞かなかった」 「え? そんなこと聞いて、また叱られるのがこわい」
「へ〜え、叱られるのが怖いと黙っちゃうの? 都合の悪いことはなかったことにするわけ? わからないことを聞くのは当然でしょう。そこで黙っててどうする」
まあ、これ以上具体的なせりふは省略するが、いはら本人が「ひさびさに怒ったな。初期のころ以来かもしれん」というくらいこっぴどく叱られてしまう。
そのあと気を取り直して、返信文の編集会議。
今回の件について判明したのは、たとえいはらあてのメールであっても、こういう基本的な「躾」にかかわる問題は、直接の飼い主であるわたしが返事をしてしかるべきだ、といはらが考えているということ。
いはらが返事を書くのは簡単だが、それではM女二人のためにはならない。
なんのためにこんなややこしい上下関係を構築しているのか、ということ。
わたし一人が、つまらない(かどうかは、ここではひとまず置く)嫉妬をして目標を見誤れば、そこから先、わたしの幸せは生まれないということ。
そう、だから 「りりだけのいはらだと思い込んでいるふしがある。それは幸せをうむのか」 ということになるのだ。
いはらとわたしの関係に「K」が介在したとして、それはたぶん、わたしの幸福を阻みはしない。
むしろ「K」を通していはらに享楽を提供できれば、かならず、何かもっと別の愉悦が還元されるはずだ。
いつだったか、まだ「K」を飼いはじめて間もない頃、いはらからの刺激的な課題にどきどきしながら「りりさんに対して心苦しい……云々」というメールが「K」から来た。
テキトーに返信した覚えがあるが、「いはらが楽しければそれで、わたしはいいじゃないか」と思いもし、いはらにもそれは伝えた。
屈折はしているが、ベクトルは常に一定であるはず。
なぜに、それを忘れる?
やはり、感情というのが、あるからな>人間。
編集会議終了直前。 「K」に送信後、いはらに転送される文面であるにもかかわらず、送信前の検閲を申し出て快諾された時は、正直うれしかった。
今、思うに「リアルなプレイがしたい」ならわたしらに判断をまかせず、即実行に移せばいい話。 近所に住んでるわけじゃないから黙っていれば、ばれることもまずない。
判断をまかせる、といいながら、やはりこの場合「否定され、たしなめられ、叱られる」ことを書いた本人は望んでいたのだ。
もっと早く気付けってばよ>自分
2002年10月06日(日)
|
|
|