2008年10月01日(水) |
個室ビデオ店放火 : 「 自殺 」 と 「 殺人 」 の間 |
「 耐えて、頑張りなさい。 その悲しみは、いつの日か君の役に立つ 」
オヴィディウス ( 古代ローマの詩人、哲学者 )
Bear and endure : This sorrow will one day prove to be for your good.
Publius Ovidius Naso
人生は、辛いこと、大変なこと、嫌なことの連続でもある。
しかし、楽しいこと、嬉しいこともあり、それを支えに人は生きていける。
大阪・難波の個室ビデオ店放火殺人事件で、小川 和弘 容疑者 (46) が、殺人と殺人未遂、現住建造物等放火容疑で逮捕された。
放火により、15名の死者、10名の重軽傷者を出したが、小川 容疑者 は 「 家庭崩壊 」 や 「 借金 」 などで自暴自棄になり、犯行に及んだという。
最近は、特定の誰かを殺害するのでなく、「 誰でもいいから殺したかった 」 などと、動機について供述する事案が増えており、これもその一例だ。
これらの犯罪は、「 殺人 」 というよりも 「 間接自殺 」 と呼ぶほうが正しく、実際、この犯人も 「 自殺すること 」 が当初の目的だった。
死のうと思って火をつけたが、途中で怖くなり、15名もの尊い命を巻き添えにしながら、自分だけ逃げて、難を逃れたのである。
チャップリン の晩年の名作 『 ライムライト (1952 米) 』 の DVD を観ると、物語の前半で、チャップリン が、自殺を図った娘を助ける場面がある。
多量の睡眠薬を飲み、昏睡状態にある娘を介抱するのだが、近所の主婦からは 「 警察に届けたほうがよい 」 と助言される。
チャップリン は、「 刑務所に入れられると可哀想だ 」 と反論するのだが、当時、物語の舞台となったイギリスでは、「 自殺は犯罪 」 とされていた。
自殺とは、「 人間の生命を奪うこと 」 なのだから、その行為は殺人と同義 ( 自殺未遂は殺人未遂と同義 ) という発想は、正しいと思う。
なぜ、「 自殺は犯罪 」 という制度を止めてしまったのか、そちらのほうが、なんとも不可解に感じる。
現代社会は、自殺に対して寛容で、誰もが 「 殺人は凶悪犯罪 」 と認めるけれど、自殺を 「 殺人と同様に悪質な行為 」 だとする認識が薄い。
それは、根底に 「 他人の命を奪ってはいけないが、自分自身の命を抹消するのは、本人の自由ではないか 」 という意識を持つ人が、多いためだ。
これは、実に 「 幼稚で、愚かな考え 」 であり、援助交際をする女子高生が 「 自分の体をどうしようと、私の勝手じゃん 」 と開き直るのと大差ない。
また、彼女らが 「 自分が売春をしていても、他人に迷惑はかけていない 」 という “ 誤解 ” を抱いているところも、自殺企図者と共通している。
今回の放火事件をみても、「 自殺を図ること 」 が、どれほど多大な迷惑を及ぼし、取り返しのつかない惨劇を招いたのか、誰の目にも明らかである。
犯人は、「 生きていくのが嫌になった 」 と周囲に語っていたそうだが、そのような言葉を口にする人間は、概ね、ロクな人間ではない。
誤解を招かないように補足するが、“ 生きていくのが嫌になった ” と胸中に想うことは、何の問題もないし、誰にでも、そんな気分の日はあるだろう。
胸中で想うだけなら他人の迷惑にはなり得ず、口にしたり、言葉にすると、それを見たり聞いたりした人に、「 嫌な気分 」 を伝染させてしまうのだ。
無責任な精神科医は、「 ストレスや、嫌なことは、抱え込まずに発散しろ 」 と言うが、それは、患者本位だが、周囲への迷惑を顧みない発想である。
いくら気分が落ち込んでいても、それで 「 何を言っても許される 」 わけではないし、弱音を吐く相手を選ばないと、自分が “ 加害者 ” にもなり得る。
事故の再発防止に向けて、建物の構造を見直すべきだとか、格差社会に問題があるとか、様々な議論が飛び交っているが、どれも的を得ていない。
異常な事件、凶悪犯罪の主役は、決まって 「 頭のおかしい人間 」 であり、人権擁護団体は反撥するだろうが、それは紛れも無い事実である。
いくら罰則を強化しても、警戒を強めても、“ その手の人間 ” が相手では効果なく、本気で治安を回復するには、社会秩序の見直しを図るべきだ。
自殺やら、無理心中を図った者を刑務所、精神病院に収容して、徹底的に更生させる、忍耐力をつけるために重労働を課すなど、厳しく対処する。
それを 「 可哀想だ 」 という曖昧な根拠で野放しにしていると、いつまでも、隣家や、隣りの客室からの煙に怯え、暮らさなければならないだろう。
|