2008年09月13日(土) |
大阪府の教育委員会は、なぜ 「 クソ野郎 」 なのか |
「 自由と人生は、毎日それらを改めて征服する人のみに価値がある 」
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ ( ドイツの作家 )
Of freedom and life he only is deserving who everyday must conquer them anew.
Johann Wolfgang von Goethe
世の中には、好戦的な人と、なるべく争いを避けたいと願う人がいる。
だが、どちらの タイプ も、あらゆる競争から逃れて生きることはできない。
自由に生きることは、言い換えれば 「 他人の影響を受けない 」 ことだが、そのためには、自分の生き方を、他人に認めさせなければならない。
経済的に自立しておらず、他人から生活の面倒をみてもらっている人は、その生き方に対し、ある程度の干渉をされるのも当然だろう。
たとえば、「 自分は働かず、毎日、遊んで暮らしていたい 」 と望むのなら、毎日、遊んでいても暮らせるだけの収入なり、資産なりが必要になる。
それが出来ず、勤務先の企業から報酬を得ることで暮らしているのならば、その企業の服務規程に従い、報酬に見合う労働をすることが求められる。
もちろん、ほとんど働かない代わりに、極貧生活で我慢したり、生活保護の世話になる方法もあるが、それはそれで 「 不自由 」 な面が多いはずだ。
子供の自主性を重んじ、勉強やスポーツの競争から開放し、各人の個性に沿った人格形成を主眼とした 「 ゆとり教育 」 は、見事な失敗に終わった。
学力平均が低下する一方、運動能力、身体能力も落ち、鬱病が蔓延して、非正規雇用者が増え、街には ニート、ネット難民が溢れている。
これが、「 各人の個性に沿った人格形成 」 の結果であり、競争への参加を無理強いせず、「 子供の自主性 」 を重んじた教育の “ 産物 ” である。
たしかに、学校生活は 「 勉強がすべて 」 ではないし、学業やスポーツで 「 他人との競争に勝つ 」 ことだけが誇りではないだろう。
だから、「 努力しない生き方 」 を選択肢として教えたことは非難しないが、その一方で 「 努力しないと、どうなるか 」 も教えるべきだったろう。
大阪府の 橋下 徹 知事 が、学力テストの結果を公表しない市町村教委を 「 クソ教育委員会 」 と罵倒したことに、賛否両論が起きている。
共産党府議団は、「 教育関係者を侮辱し、教育への不信感を拡大させる暴言 」 として、撤回と謝罪を求める申し入れを知事側に行った。
たしかに、知事の発言として 「 クソ 」 はどうかと思うが、府民の大部分は、教育委員会よりも知事の言い分を支持しており、抗議も少ない。
これは、「 結果を公表して、競争を煽りたくない 」 と、 ゆとり教育の失敗 を顧みない教育委員会に対する、府民の強い憤りによるものだ。
言葉遣いは乱暴だが、どこかの首相のように 「 他人事 」 ではなく、本音でぶつかる 知事 の姿勢が、評価されていることも大きい。
最近は、「 努力しなくてもいい 」 という風潮がもてはやされ、何かに熱中したり、一生懸命、真面目に取り組むことが善しとされない。
勝ち負けの発生する競争は、「 敗者へのいたわり 」 から敬遠され、結果が良い者も、悪かった者も、すべて同様に 「 頑張ったね 」 と評価される。
学力テストの結果を公表すると、成績の悪い子がイジメられるとか、差別につながるという理由から、教育関係者は 「 非公開 」 が正しいと主張する。
だが実際には、結果が示されることで、成績の悪い子も 「 次は頑張ろう 」 と努力するし、成績の良い子は、さらに高みを目指せるのではないか。
それに、結果の優劣を示さないのであれば、何のための 「 学力テスト 」 であるのかも不明で、最初から、まったくやる意味がない。
格差社会、競争社会を批判しながら、これでは 「 私学 」 との格差が拡がるばかりで、公立校の教育レベルが落ちていくことは明白だろう。
また、学校を出たら、厳しい競争社会が待ち受けているので、幼い頃から徐々に慣らされていないと、そこで大きな壁に直面することになる。
なかなか社会に馴染めない若者や、簡単に挫折する人の多くが、競争から逃れ、甘やかされて育ってきた人たちであることは、紛れも無い事実だ。
自由や、自分らしい生き方は、自分の力で 「 努力して勝ち取るもの 」 と、教えることこそが教育であり、教育に携わる者の使命ではないかと思う。
教え子には、「 皆で仲良く馬鹿になろう 」 と指導しておいて、自分の子供は私学に通わせるような、そんな教育委員会は、たしかに 「 クソ野郎 」 だ。
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