「 物事をややこしくするも、簡単にするも、自分次第さ 」
映画 『 モンタナの風に抱かれて 』 より
You can make it as complicated or as easy as you like.
The Horse Whisperer
多少の人生経験と観察力があれば、他人の性格は分析できる。
皆、よくわからないのは、意外と 「 自分自身 」 のことである。
現在の仕事柄、企業の人事に関与する場面も多いため、さまざまな適性の検査や、性格のチェックリストなどを入手し、人物診断に役立てている。
自分自身で試してみると、たしかに思い当たる個所と、よく周囲から指摘される部分が多く、その結果に信憑性のあることが認められる。
このように 「 自己診断 」 を心がけることで、自分の長所と短所を認識することを、一般的に 「 自己認知 」 あるいは 「 自己認知行動 」 という。
では、そのような行動をとれば 「 自分の長所を知り、欠点が克服される 」 かというと、それほど簡単なものではない。
なぜならば、大抵の人間は自分の欠点や嫌な部分を認めたくないし、仮に認めたところで、改善できるとはかぎらないからだ。
性格的な問題に関しては、長所とも短所ともいえるような、良し悪しの判断がつなかないことも多く、それを変えることが得策とはかぎらない。
たとえば、「 せっかち 」 と呼べば短所となる性格の人が、決断力の速さや、積極的な行動力という長所を備えていることがある。
逆に、「 のろま 」 だと思われている人が、慎重さや、思慮深さという長所を持っているケースもあり、「 長所は短所の裏返し 」 である例が少なくない。
また、自分自身の性格に気付いても、どのような原因で人格形成が行われてきたのか、自分で深層心理を探ることは難しい。
ゴールデンウイークで持て余している暇を 「 自分探し 」 にあてて、過去の歴史を振り返って自己認知に努めるのも、たまにはよいだろう。
人間の性格は、「 生い立ち 」 と 「 経験 」 によって形成される要素が大きく、自分を取り巻く環境と、経験した出来事への対応で決まりやすい。
なかでも、幼児期の環境や出来事が性格に影響を与えやすい事実は、広く一般的に知られており、それは差別や偏見などの意識にも現れやすい。
たとえば私の場合、この日記で何度も 「 自殺者、自殺企図者 」 に対して、「 卑怯者 」、「 人間のクズ 」 などと蔑み、明らかに偏見を示している。
自殺を企図するのが大好きな 「 鬱病 」 の方々から、弱者差別だの、精神病患者への偏見だなどと、お叱りを受けたことも少なくない。
自分では、立場の弱い人たちに憐れみを持たず、傷口に塩を擦り込むような 「 嫌な奴 」 だと思いたくないが、はたしてどうなのだろうか。
たしかに私は、健康的な身体と精神を持つ人を好み、自分自身も若い頃はスポーツに情熱を傾け、心身の鍛練に励んで成果を挙げてきた。
父も兄も同様で 「 文武両道 」 を尊び、友達の大半は何らかの種目で選手経験があるし、落ち込むことはあっても鬱病になった者はいない。
だからといって、病気に苦しんでいる人を軽蔑したり、身体の不自由な人に辛く当たったことなど、一度も無いはずである。
おそらく私の場合、「 病気の人 」 ではなく、「 甘えている人 」 が嫌いなのであって、「 鬱病患者全体 」 でなく、「 鬱病に甘える人 」 が嫌いなのだ。
では、なぜ 「 甘える人 」 が嫌いになったかというと、自分自身の生い立ちや経験に関係が深いわけで、それには思い当たるフシがある。
幼い頃から特に不自由なく暮らし、尊敬できる両親に育てられたけれども、私の母親はずっと病気がちで、34歳でこの世を去った。
子供は普通、母親を相手に甘えたり、泣き言を聞いてもらう練習をするものだが、そういった機会が私には少なかったようである。
父親は特に厳しいわけでもなく、むしろ陽気で明るい性格だったが、それがかえって 「 泣き言を吐露しにくい 」 環境であったのかもしれない。
そのせいか、骨折しても、親が死んでも、学校の成績が下がっても、国体で上位に入れなかったときも、愚痴や泣き言を漏らした記憶がない。
この日記を5年以上続けているが、どの日をみても、他人に対する恨み言やら、仕事の愚痴やら、泣き言などは見つからないのがその証拠だ。
WEB日記の中には、「 世直し 」 と称して、自分のジレンマを他人のせいにし、日本政府や、超大国アメリカの悪口ばかりで綴っている人がいる。
そういう連中は、自分の 「 鬱 」 を言い訳に利用し、病気を治療することには専念せず、同じように 「 甘えた人間 」 に共感を求めているだけだ。
おそらく、自分も他人に見せないだけで、弱い部分があるのだろうけれど、「 甘えてはいけない 」 という習慣がついているので、それを軽蔑する。
別れた彼女に再会して、当時の自分は 「 泣き言を漏らして甘えることができず、潔い別れを選んだのではないか 」 という気もしてきた。
冒頭の台詞は、そんな 「 ややこしい自分 」 への戒めとして、せめて好きな相手には、もっと心を開いたほうがいいかなと、反省を促す言葉でもある。
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