2005年02月17日(木) |
責任能力の無い者に、自由を与える矛盾 |
「 東海岸の自由の女神は、西海岸の責任の女神によって
補完されるべきである 」
ヴィクター・フランクル ( オーストリアの精神分析医 )
I recommend that the Statue of Liberty on the East Coast should be supplemented by the Statue of Responsibility on the West Coast.
VICTOR.E.FRANKL
彼は第二次大戦中、ナチの強制収容所に入れられ、生き残った人である。
その体験を綴った 「 夜と霧 」 の著者として、世界的に知られている。
その当時、既に医師だった彼は、悪夢のような厳しい収容所生活の中で、次々と人が耐え切れずに死んでいく様を目撃した。
不思議なことに、体が頑強な連中が次々と死んでいく一方、華奢な体つきをした人たちが生き残っている。
やがて彼は、「 生き残る確率の高い人 」 について、ある法則を発見する。
それは、「 収容所の中の生活であっても、そこに何らかの意味を創造した人たちである 」 というもので、実際、その通りであろう。
この本は、世界中で数百万部も売れている 「 超ベストセラー 」 となった。
有名な自由の女神に対比する 「 責任の女神 」 という表現は、この本の中に登場するのだが、冒頭の文章の前に、以下の説明が補足されている。
自由は責任という観点から生きなければ、単なるわがままに堕落する危険がある = Freedom is in danger of degenerating into mere arbitrariness unless it is lived in terms of responsibleness.
いまから数十年前、戦争の最中、地獄のような収容所にあっても、人間が心に感じることは、今と、さほど変わらないことに気がつく。
将来に絶望し、社会にケチばかりつけて自殺を図る者は 「 強制収容所 」 でなく、まるで極楽のような 「 エアコンの完備した部屋 」 にだっている。
生き残れるかどうかは、「 与えられた環境が良いか、悪いか 」 ではなくて、そこに意味を求め、生き抜こうとする人の意志の強さに大きく影響される。
また、「 自由が先か、責任が先か 」 なんて論議も、現代と変わらない。
マスコミや、様々な団体が、他人には 「 その両方を要求 」 し、他者側から求められた場合は、どちらにも応じない。
出所した精神異常者が再犯を起こすと、「 野放しとは、無責任な話だ 」 と騒ぎ出し、それでは拘束しようとなると 「 自由はどうした 」 と騒ぎ出す。
ずっとこんな調子で、最初から反対意見を準備したうえで、賛意を求めているようなケースや、天邪鬼な話で大衆を欺き、翻弄している。
誰のための自由か、何のための責任かすら、殆ど明確でない。
寝屋川市の事件以後、わずか二日の間に、あちこちの小学校付近に不審人物が出没し、駆けつけた警察官に 「 御用 」 となっている。
前回の日記で、彼らをある意味 「 隔離 」 する意見を述べたが、必ずしも、そうしなければいけないわけではない。
今まで通り、社会に絶望して病気になったり、死のうとしたり、適当な道連れを探している連中に、すべての 「 自由 」 を与えるのも一つの方策だ。
彼らに対し、学校の近くをうろついたり、反社会的な意見を発信したりする権利を与え、共に同じ社会で暮らしていくことも悪くはない。
ただし、自由な彼らに 「 責任能力 」 など無く、その状態が続けば、やはり今まで通り、「 まっとうな市民が犠牲になる 」 ことは覚悟すべきだろう。
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