2005年01月22日(土) |
墓穴を掘った大新聞社 |
「 君の意見には賛成しないが、君の発言する権利は死んでも擁護しよう 」
フランソワ = マリー・A・ヴォルテール ( フランスの文学者 )
I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.
FRANQOIS = MARIE・A・VOLTAIRE
マスコミには 「 報道の自由 」 があり、各社はそれを主張する。
それが彼らの使命だし、それは尊重されるべき彼らの精神でもある。
朝日新聞がNHKに対し、「 公共電波で一方的に誹謗した 」 という理由で、提訴を前提として、訂正と謝罪放送を求める文書を送ったらしい。
事の成り行きは既にご承知だと思うが、例の 「 アレ 」 である。
NHKが、内容に正確性を欠いた 「 問題のある特番 」 をつくり、実際には放送しなかった理由について、様々な憶測が乱れ飛んでいる。
反社会的な団体が制作に携わっていただとか、政治家から圧力があったとか、朝日新聞が関与していたとか、いろいろな噂が飛び交う。
誰かが 「 嘘 」 をついているのは明白だが、真理は明らかでない。
この件に関して、「 誰が悪い 」 ということに興味は無い。
個人的な価値観で申せば、日本人でありながら日本の悪態ばかりをついている連中は嫌いだが、それ自体が 「 反逆罪 」 になるわけでもない。
今の日本の憲法は、思想や表現の自由が認められているのである。
ただ、片方に 「 放送法 」 というものや、マスコミに求められる倫理観というものがあるので、放送内容に問題があれば、それを訂正する必要がある。
既に放送してしまったのならまだしも、放送前に気がついたのであるなら、放送を見合わせる処置も、当然の配慮といえるだろう。
番組の 「 適合性 」 については、その番組が放送されなかったのだから、それが適切だったのか、問題があるのか、明確な判断はできない。
ただ、これだけ話題に上っても放送しないということは、NHK側で熟考した結果、「 やはり放送するべきでない 」 という結論に達したのだろう。
それに対して朝日新聞側は、「 放送して、国民の判断をあおぐべき 」 という趣旨の報道を、数日前には唱えていた記憶がある。
よほど悪質な内容でないかぎり、その意見は正しいようにも思う。
それが 「 善でも、悪でも 」、あるいは 「 右でも、左でも 」、放送して国民の審判をあおごうじゃないかという意見は、マスコミの論理に適っている。
私が朝日新聞に 「 不信感 」 を抱くのは、その問題自体よりも、NHKから 「 誹謗された 」 と文句をつけているところだ。
これには 「 矛盾 」 を感じるし、あまりの身勝手さに立腹する。
自ら、「 報道の自由 」 を主張しつつ、他人が批判的な報道や、自分たちに都合の悪い報道をすると激しく反発するというのは、いかがなものか。
前述の 「 放送して国民の審判をあおぐ 」 という論拠を是とするのならば、彼らの正当性もまた、「 放送して国民の審判をあおぐ 」 ことで試される。
反対意見に耳を塞ぎ、「 圧力をもって糾弾を許さず 」 とする姿勢は、彼ら自身がもっとも抵抗してきた 「 悪政 」 ではなかったのか。
私が嫌いなのは ( 誰でもそうだろうが )、「 自分に甘く、他人に厳しい 」 という自分勝手な人間や、企業や、団体である。
他人の問題は容赦なく追求し、自分たちは 「 国民の知る権利 」 を委任された代弁者のごとく、報道の自由の名のもとに取材し、それを流布する。
ところが、逆に 「 対象者 」 とされた途端、固く口を閉ざし、あるいは圧力をもってこれを制すとは、なんたることか。
この時点で朝日は、「 マスコミの風上にもおけない存在 」 に成り果てた。
日本を代表する大手新聞社としては、なんとも情けなく、みっともない。
人は誰しも失敗をするし、大きな 「 間違い 」 を犯すこともある。
もちろん、そうならないように気をつけることが大事なのだが、そこに至っては、潔く罪を認め、反省する姿勢が肝要である。
あるいは、「 無罪 」 を主張する場合でも、追求する側に圧力をかけたり、脅したりするような蛮行に及べば、誰の賛意も支持も失ってしまうものだ。
彼らもまた、「 思い上がり 」 をした愚鈍な集団に陥りかけている。
どんな意見を持とうが、論評を連ねようがかまわないけれど、自分たちの手によって 「 報道の自由 」 を否定する行為だけは、断じて許されない。
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