「 木を知って、忍耐の意味がわかる。
草を知り、ねばることの意義を知る 」
ハル・ボーランド ( 作家 )
Knowing trees, I understand the meaning of patience. Knowing grass, I can appreciate persistence.
HAL BORLAND
ヤンキースから日本のオリックスに、一人の外国人選手が移籍する。
期待の外野手、「 ガルシア選手 」 である。
彼は来日するにあたり、元同僚の 「 松井選手 」 から、日本の野球に関して注意すべき点などを尋ねたという。
その質問に対し松井選手は一言、「 ペイシェンス [ patience ] = 忍耐 」 だと答えたらしいが、これはなかなか的を得た名答であると思う。
もちろん、アメリカ人にも 「 忍耐 」 という概念が無いわけではないが、日本の “ それ ” と比べれば、かなり意識の違いもあり、慣れないと苦労する。
野球選手に限らず、日本で雇用される立場の人間は、ちょっと理不尽とも思えるような 「 忍耐 」 を要求される場合が多い。
これを知らねば、日本球界に居つくことさえ難しいかもしれない。
たとえば、どのあたりが具体的に異なるのか。
労使間や、階級差によって生じる軋轢など、アメリカでは実力さえ認められれば 「 フレンドリー 」 に交わされる関係が、そうはいかなかったりもする。
年長者、先輩に対する 「 非論理的な気配り 」 を求められることも多い。
けして、合理的とはいえない習性だが、日本のスポーツマンは技術と共に 「 礼節 」 を学ぶことが当たり前になっており、それを欠いては許されない。
すべて 「 礼に始まり、礼に終わる 」 といわれるほど、礼節を重んじる組織に置かれた日本人にとって、それは 「 美徳 」 というより 「 当然 」 である。
実力を認められた者にとって、それなりの 「 特別待遇 」 を与えられることが普通の社会においては、日本の 「 礼節 」 が理解されにくい。
試合で満足できる成果を挙げても、練習方法に関する意見の食い違いや、選手の起用法が気に入らないなどの理由で、外国人選手はよく対立する。
彼らの中には 「 大リーグで活躍してきた 」 というプライドと、日本の野球に対する違和感というものが、たえず存在している。
また、異国の地に訪れた孤独感や、焦燥感も、少なからず携えている。
仲間はずれにされても嫌だが、新人や、二軍の選手と同様に扱われるのも不愉快だったりするので、彼ら自身、なんとも難しい立場なのである。
一昔前に、「 “ ノー ” と言えない日本人 」 なんて本も流行ったが、世渡りのためなら嫌なこと、理不尽なことでも我慢する気質が、たしかにある。
思ったことを素直に表せなかったり、自己主張を控える背景には、技術的、知識的に未熟なことだけではなく、習慣的な抑圧による要素も多い。
たとえ 「 当然の権利 」 であったとしても、押し通すと 「 わがまま 」 に捉えられたり、反逆者のレッテルを貼られたりすることも珍しくない。
そんな居心地の悪いことを美徳だと考える 「 奇異の国 」 に赴くのだから、意に添わないことでも我慢できるだけの 「 忍耐 」 も必要となる。
野球の世界に限らず、日本というのは “ そういう国 ” なのである。
私が 「 外資系企業 」 の合理的な考えや、学閥などを気にかけない自由度に 「 水が合った 」 のも、そういう点が大きかったように思う。
とかく日本では、自分の意見を発するときに 「 周囲の顔色を窺う 」 ような不自由さ、窮屈さがあって、どうにも面倒なことが多い。
昔に比べれば、日本の企業も少しは変わってきたのだろうけれど、いまでも伝統的に、そのような体質を保持し続けているところがある。
けして 「 礼節を重んじること 」 や 「 年長者を敬うこと 」 が悪いというわけではないのだが、実際の利益や、本来の目的よりも優先されがちだ。
そんなとき 「 黙して従う 」 ことは、異邦人にとって忍耐の要る作業である。
練習で技術を磨いたり、自己を鍛練する必要性は、どこにいても同じだ。
また、いくら努力しても 「 実戦で成果を挙げる 」 ことができなければ、良い評価を与えられないことについても、日米の違いはない。
だから、松井選手の言う 「 忍耐 」 を 「 自己の研鑚 」 に留めて考えると、せっかくのアドバイスが功を奏さない可能性もある。
言いたいことが山ほどあっても、自分を律して 「 黙して語らず 」 の姿勢を求められる場面や、自己犠牲を期待される局面が、必ずやってくる。
それが 「 善いか、悪いか 」 は解釈にもよるが、私が 「 メジャーリーガー 」 ならば、けして日本でのプレーを望まないだろうと思う。
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