2004年12月26日(日) |
中高年よ、大志をいだけ |
「 あなたがなれたかもしれない人になるのに、遅すぎることはない 」
ジョージ・エリオット ( 作家 )
It's never too late to be who you might have been.
GEORGE ELIOT
今回から 「 仕事 」 のカテゴリーで、再び日記を書いてみようと思う。
以前は 「 時事/社会 」 のカテゴリーに登録していたが、お引越しである。
20代 〜 30代の人に対して、「 若いんだから、やりたいことをやりなさい 」 などと諭す人の姿を、巷でよく目にする。
たしかに 「 若い 」 ということは 「 失敗 」 というマイナス面を考慮した場合、なんとなく 「 やり直しがきく 」 という印象につながりやすい。
しかし逆に考えると、いま 「 やりたいことをやらない 」 でも、若いのだから後からでも 「 やろうと思えばできる 」 わけだ。
近頃の若い人は無気力で 「 若いんだから、やりたいことをやれ 」 と励ましても積極的に動かないと嘆く管理職もいるが、それは間違いである。
その世代に私なら、「 やりたいことを見つけなさい 」 とは言うが、いづれにせよ、「 やりたいこと 」 なんて言葉で ハッパ をかけられるものではない。
むしろ、「 やりたいこと 」 という言葉に価値を感じているのは、40代以上の中高年で、憧れ、羨望、そして絶望的な 「 あきらめ 」 の対象となっている。
一見、「 やりたいことをやる 」 とか、「 生きたいように生きる 」 というのは、それがもっとも自然で、シンプルなことのようにもみえる。
ところが実際には、ほとんど大半の人が、その生き方を選ばない。
その背景に潜み、自然にあるがままの生き方を遮っているのは、「 人並みの暮らし 」 とか 「 世間体 」 といった 「 安定という名の呪縛 」 である。
多くの者が、「 安定 」 のために 「 やりたいこと 」 を犠牲にする中で、素直に己の本能に従う生き方とは、それなりの覚悟を伴うものなのだ。
もちろん、生活の糧を得るためには、「 やりたくないこと 」 でも請け負わなければならない状況もあるだろう。
それをすべて 「 性に合わない 」 といって遠ざけたり、逃れたりするだけでは、単なる 「 わがまま 」 と判断されても否めない。
しかしながら、「 安定 」 だけが価値基準というのも淋しい話だ。
このあたりの 「 バランス 」 が実は大事で、しっかりと生活基盤が構築できていて、なおかつ、いきいきと人生を楽しんでいくための必須要項である。
それは、言い換えれば 「 生き方のセンス 」 と呼んでもいいだろう。
昔と違って、日本経済は混迷を極め、「 安定 」 した企業が少なくなった。
企業自体は 「 安定 」 していても、そこに働く人々の生活がどこまでも保障されているかといえば、甚だ疑問である場合も多い。
大事な自分の一生を捧げ、「 やりたいこと 」 をすべて犠牲にしたとしても、その引き換えに 「 安定 」 を得られる時代ではなくなってきたのである。
ならば、こんな時代だからこそ、曖昧な 「 安定 」 に心身を委ねるよりも、「 やりたいこと 」 に比重をかけたほうが、得なのではないかと思う。
生活に必要な最低限の収入と、僅かな保障だけを維持しつつ、自分本来の生き方とか、無限の夢に挑戦することが、今の時勢には合っている。
私にとって 「 仕事 」 とは何か。
それは、たしかに重要ではあるけれど、手段であって目的ではない。
人間が死ぬ直前に後悔することは、「 できなかったこと 」 などではなくて、おそらくは 「 やらなかったこと 」 であろう。
そう考えると、「 やれる時間 」 が少なくなっている分だけ、若い人達よりも中高年のほうが、いま 「 やりたいこと 」 をやらなければならないのだ。
これから 「 仕事 」 について日記を書いていく予定だけれども、単に 「 稼ぐ手段 」 というだけでなく、そのような視点で書いていきたいと思っている。
( 本日のおさらい )
「 中高年こそ、いま “ やりたいこと ” をやるべき 」
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