「 偉大な人物にはかならず、偉大な母親がいた 」
オリーブ・シュライナー ( 南アフリカの作家 )
There was never a great man who had not a great mother.
OLIVE SHREINER
先日、日記の冒頭で 「 乙武 洋匡 氏 」 の名言を引用した。
まったくの偶然だが、今日、ある女性との会話でも、彼の話が出た。
彼が勇気ある人物であるという点で意見は一致したが、彼女に言わせると 「 彼も偉いが、彼の両親もまた、立派な人たちなのだろう 」 とのこと。
もし、自分が彼の母親だったなら、ずっと家の中に閉じこもり、己と我が子に課せられた運命を呪いながら、日陰を歩いたことだろうと、彼女は語る。
そして、「 今日死のうか、明日死のうか 」 という意識の下、それ以外は何も考えられなかったのではないだろうかと続けた。
乙武 氏 の両親は、彼を 「 普通に 」 育てたそうである。
それがどれほど大変なことであったか、我々には容易に想像できないけれど、彼が魅力的に成長した事実から、その 「 効果 」 は証明されている。
中国の故事に、「 孟母三遷の教え 」 というものがある。
孟子の母親が、最初は墓所の近くにあった家を、孟子の教育を考慮して、市場の近く、それから学校の近くへと、三度引越しをしたという話だ。
我が子を想う母親の愛ほど 「 強い愛 」 は他になく、しかも偉大な母親には類稀なる叡智が存在しうることを称えた逸話として、日本にも伝わった。
もちろん、親の愛に恵まれずとも立派に成長した人物もいるし、偉大な系譜から、とんでもない悪童が産み落とされることもある。
だが、それでも 「 子供の人間的な成長にとって、母親の影響は大きい 」 という説は揺るがず、その存在は不動の山のごとく大きなものである。
近頃、巷で 「 NEET [ Not in Employment,Education or Training ] = ニート 」 という言葉を耳にする機会が多い。
これは、「 職に就かず、学校にも行かず、就労に向けての具体的な動きをしていない 」 という、無気力で、無計画的な今の若者を揶揄する言葉だ。
その中には、享楽的に 「 今を楽しむことしか考えていない 」 ヤンキーのような者もいれば、社会から逃避した 「 引きこもり 」 みたいなタイプもいる。
あるいは、夢を求めて社会人になったものの、何かの拍子で挫折してしまい自信を喪失した者や、働くことへの恐怖が先行し、行き詰まる者もいる。
いづれにしても、本人にとって、また、社会全体にとっても、喜ばしい成果が期待できる話ではなく、国を挙げて取り組むべき問題だろう。
このような無軌道な若者達が、すべて世の中を悪くしているとは言わない。
しかし、「 集団自殺 」、「 両親惨殺 」など、凶悪な若者犯罪や事件の主犯たちに 「 NEET 」 の割合が高いことも事実で、無関係とも言い難い。
それは本人たちの 「 自己責任 」 であるけれども、彼らの両親が、いったいどのような育て方をしたのか、その影響は大きいだろう。
いわゆる 「 親の顔がみたい 」 という感情である。
親が子供を大切に思い、愛情と、また厳しさをもって育てているならば、そうやすやすと犯罪に手を染めたり、無気力に彷徨う輩は生まれないはずだ。
個の家庭だけではなく、今は社会全体が 「 母性 」 を失いつつある。
他人に無関心だったり、あるいは極端に 「 過保護 」 な甘やかせ方をする風潮が、わがままで自分勝手な人格の持ち主を、社会にはびこらせる。
特に、偏狭的な 「 過保護 」 というものが、社会への適応能力を鍛える機会を逸し、強靭さや、弾力性といった資質を、個人が養えなくなっている。
精神がヤワだったり、能力が低いために企業で脱落する者がいても、それは 「 病気だから、本人のせいではなく、庇護しない会社が悪い 」 と詰る。
昔なら 「 負い目 」 を感じて努力することが当たり前だったはずが、今は精神科で 「 病気 」 と認められたことを、勲章のようにひけらかす。
病気に対して 「 偏見を持て 」 という気はないが、それで開き直り、大手をふって社会に甘える傾向や、それを寛容する風潮には問題がある。
たとえば、「 うつ病 」 の人へは医師から 「 仕事ができて、責任感の強い人ほど “ うつ病 ” になりやすいんですよ 」 と、よく言われる。
実際には、自分のストレスを管理し、体調を整えることも 「 仕事 」 の一部なので、ハードな仕事で神経を痛める者に 「 仕事ができる 」 はずがない。
また、「 責任感 」 とは、「 使命を、最後までやり遂げること 」 であり、失敗して首を吊るような愚か者は、「 責任感の強い人間 」 では在り得ない。
医者もそのぐらいはわかっているのだが、「 とりあえず慰めるしか手がない 」 ので安易に 「 責任感 」 という言葉を使い、過保護に見守っている。
それを、医者から 「 君は仕事ができて、責任感が強い人だねぇ 」 と言われたことで過度の自信を持ち、勘違いした言動を繰り返す者もいる。
これが病人にとっての 「 気休め 」 になるだけなら良いが、自分の欠点や、病んでいることに気がつかず、いつまでも改められないのでは逆効果だ。
昔は、社会がそれほど 「 甘やかす 」 ことをしなかったので、彼らには偏見も集中しただろうが、社会に適応するための努力もしたはずである。
いまは、そういうことに社会が寛容すぎて、過保護なために 「 責められはしないが、いつまでも病気が治らない 」 という人たちが多い。
以前にも書いた 「 ぬるい世の中 」 の弊害が、随所に現れている。
ちなみに社会が 「 ぬるい 」 からといって、精神を病んでいる者が得をするわけではなく、むしろ、その逆である。
ひとたび彼らが犯罪に荷担したり、自分に迷惑を及ぼしたりするようになると、大衆の心理というものは一変する。
とたんに 「 死刑にしろ 」、「 こんな奴を野放しにするな 」 と、まるで手のひらを返したように言及し、寛容さなどは微塵もなく消え去るのが普通だ。
つまり、彼らに厳しいことを言わないのは 「 無関心 」 だったり、「 どうでもいい 」 と考えていることの裏返しで、本当の優しさではない。
日ごろから、耳の痛いことでも 「 お前は間違っている 」 と指摘し、生きていく強さや、社会への適応能力を養うことが、「 母の愛 」 である。
( 本日のおさらい )
「 本人が言われたくないことを言ってあげるのが、母の愛の強さ 」
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