2004年12月02日(木) |
皇室に対するマスコミの優柔不断な姿勢 |
「 愛しているから結婚するのです 」
明仁皇太子 ( 現天皇陛下 )
I am marrying her because I love her.
AKIHITO
日本の皇室で 「 初めて平民と結婚する 」 にあたっての、ご発言だった。
短いけれど、揺るぎない信念と、愛情の深さが偲ばれる名言である。
戦後、天皇の存在は 「 神 」 から 「 国民の象徴 」 へと変わった。
この 「 象徴 」 という表現に対する理解は難しく、学校教育でもそのあたりは 「 さらっと流すだけ 」 で、ほとんど明確な説明を受けた記憶がない。
何をもって 「 国民の象徴 」 と考えるのかは人によりけりだが、その生き方を庶民が模範とするには、あまりにも置かれた環境が異なりすぎる。
これは、戦前、戦中における 「 天皇のカリスマ性 」 を危険視した占領軍が、「 国民の心の拠り所 」 であった事実も鑑みたうえでの配慮である。
現憲法と同じく、すべては 「 占領政策 」 に基づいた取り決め事であって、けして日本人が自ら望んで決めた結論ではない。
イラクのフセインや、北朝鮮の金正日と違って、天皇は戦争責任者でありながらも、けして 「 独裁者 」 としてのレッテルを貼られることはなかった。
その違いは、自らの地位に執着して独善的な判断を下したり、己の野心のために好戦的な姿勢をとらなかったことなどからも、明白である。
また、占領軍司令官のマッカーサーに対して、「 すべての責任は私にある 」 と潔く語り、その身を犠牲にして国民を守ろうとした美談も有名だ。
昭和天皇は、たしかに 「 神 」 ではなかったが、すぐれた人格者であったことは紛れも無く、敵国の司令官にさえ深い感銘を与えたという。
同じ総領でも、某国のチンケな独裁者とは、そこが大きく異なる点であり、国民の崇拝、信奉という意識にも、明らかな違いがあったはずだ。
実際、現在でも 「 天皇を敬いなさい 」 といった国民に対する強制や圧力が無いにも関わらず、ほとんどの国民は皇室を 「 ないがしろ 」 にしない。
あるいは日本人の血液に 「 皇室崇拝のDNA 」 みたいなものが遺伝的に含まれているのかもしれないが、おそらく、それだけの問題ではない。
皇室ご一家のご努力やら、それを支える周囲の献身というものがあって、理想的な秩序や、品格の維持というものが、国民の信頼を勝ち得ている。
そのあたりの 「 システム 」 とか、それが 「 良いか、悪いか 」、「 天皇制が必要か、否か 」 などの議論は、一口に結論が下せないものだろう。
現在、それに対し賛成でも、反対でも、罰せられるものではない。
現天皇がご成婚をなされた折には、「 初めて平民と結婚する 」 ということが国民の関心を集め、皇室内でも大騒ぎになったようだ。
そこで陛下 ( 当時、皇太子 ) は、「 愛しているから結婚するのです 」 という短い言葉で、待ち構えた記者団を圧倒されたそうである。
それは 「 開かれた皇室 」 をアピールするためのキャンペーンなどではなく、純粋に、陛下の御心を偲ばせる微笑ましい伝説となった。
シンプルで 「 当たり前の台詞 」 でもあるのだが、陛下のお立場というものを考えると、勇気の要る発言であったかもしれない。
そんな台詞を語らなければならなかった背景には、執拗なマスコミの取材というものが存在し、昔も今も、マスコミは 「 下卑た性質 」 を帯びている。
現皇太子殿下の 「 人格否定 」 発言は波紋を広げたが、いままた、それに対する秋篠宮殿下の 「 驚いた、残念 」 という発言が話題になっている。
関係者でもないので深くは知り得ないが、皇室ご一家は仲睦まじく、最近も、皆様そろって健やかにお過ごしのようである。
それを、あたかも 「 身内の不調和 」 である如く、面白おかしくチョッカイを出し、国民の好奇心を煽ろうとするマスコミの下劣さには辟易となる。
前にも述べたように、天皇制を否定しようが、敬意を表さないでいようが、それは各人の自由であり、もちろん、マスコミも強制は受けないで良い。
許せないのは、ご成婚やら、ご崩御の際には、こぞって 「 天皇の権威 」 を認める報道をするくせに、こういう時には手のひらを返すところである。
世が世なら、こういう輩は 「 銃殺 」 である。
こういう時世なので 「 バチあたり 」 と咎めはしないが、展開によって天皇を敬ったり、芸能人のように 「 スクープのネタ 」 にするのでは節操がない。
仮に、「 天皇だって一般市民だ 」 と割り切って、不仲説やら、ゴシップやらをぶちまけるのなら、それはそれでもよい。
ただし、それならば、ご崩御やご成婚の折にも、特別の言葉遣いや、独特の言い回しによる 「 天皇崇拝的 」 な報道をすることがおかしい。
つまりは、片側で ( 国民の大多数と同じく ) 皇室を 「 特別な存在 」 として認識しているフリをして国民に同調し、隙あらば 「 ネタ 」 にするのである。
よく、「 ○○新聞は左翼的だ 」 とか、マスコミの思想が議論になる。
右でも左でも、本当に 「 思想 」 があるならば、それはそれでよい。
ところが実態は、今回の皇室問題に関する報道でも明確なように、国民の大多数に背を向けることなく迎合しながらも、チョイと煽ってみたりする。
そんな姑息で 「 思想も信念も何もない 」 連中が、民意に敬遠されないように顔色を窺いながら、「 売るため、売り込むため 」 に画策している状態だ。
マスコミのみならず、「 民主党 」 もこの手法を乱用しているので嫌いなのだが、今はそういう 「 日和見主義 」 がウケる時代なのかもしれない。
( 本日のおさらい )
「 国民の顔色を窺いながら、思想や信念のある “ フリ ” をする連中 」
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