2004年11月27日(土) |
「 ぬるい 」 の補足 |
「 障害を持っていても、僕は毎日が楽しいよ 」
乙武 洋匡 ( 作家 )
Even though I'm handicapped, every day is fun.
HIROTADA OTOTAKE
乙竹氏の書かれた 『 五体不満足 』 は、韓国でもベストセラーになった。
現在、英語をはじめ、さまざまな言語への翻訳も進められている。
前回、「 ぬるい社会 」 について書いたが、一部、誤解を招いたようだ。
あれを 「 落ちこぼれる者を救済する必要などない 」 という見方で読むと、たしかに 「 行き過ぎた資本主義の弊害 」 という悪夢につながる。
才覚や、身体能力に劣る人を、すべて 「 落伍者、無能力者 」 として処理する社会が、けして良い社会でないことは、誰の目にも明らかだろう。
本当の 「 優れた国家 」 というものは、「 個人の業績は評価するけれども、誰もがある程度の幸福を分け与えられる国家 」 という姿が理想的である。
今も昔も、私自身、それを否定するつもりはない。
ただしそれは、あくまでも 「 国家 」 が中心になって行う仕事である。
それを企業に求め、各企業が生産性の低い人材に足並みを揃え、ゆったりと水準を下げていくことなど、誰のためにもならない。
それは、資本主義であろうが、社会主義であろうが同じである。
企業は、最も効率が高く、生産性の挙がる手法で経済活動を行い、そこから発生する利潤に見合う形で納税をし、社会福祉活動にも参加する。
そこを勘違いしては、なんの解決にもならないはずである。
私は、「 自分がハッピーでなければ、誰もハッピーにはできない 」 という考え方の人間なので、「 滅私奉公型 」 の日本企業には長く勤めなかった。
企業も、利益を挙げ、従業員が健やかで豊かな暮らしをできるようになってこそ、はじめて社会への貢献を成し得るものではないだろうか。
身体が丈夫でも、企業内でその 「 足を引っ張る者 」 は、むしろ社会福祉の観点からみれば、マイナスの存在といえなくもない。
たしかに、「 心の病気 」 も立派な病気なのだろうが、企業にその 「 庇護 」 を求めるのは、いささか筋が違うように思う。
現在の職務で 「 心の病気 」 が改善されないのなら、企業に 「 ぬるさ 」 を求めて甘えるより、自分から舞台を変わるなり、変化するべきだろう。
日本は、体の不自由な障害者に対しては、ずいぶんと対応が遅れている。
乙武氏は、先天性四肢切断という障害を持って生まれてきたが、車椅子からにこやかに語りかけ、障害の問題について 「 革命 」 を起こした。
彼は 「 心のバリアフリー 」 という言葉をもって、静かだが、これ以上はないというほどの説得力を携え、その壁に風穴を開けたと思う。
それは、過去において誰も成し遂げられなかったような素晴らしい業績であり、大いに評価できるものだ。
彼の行動力、プレゼンテーション能力は、健常者と比しても遜色がない。
乙武氏が立派なのは、「 自分の可能性 」 に挑戦しているところでもある。
他人の物真似ではなく、彼は、彼にしかできない方法と努力によって、世の中を 「 より良い社会 」 にしようと頑張っている。
それに比べ、「 心の病気 」 に対し企業へ寛容さを求める人たちは、少し、自分勝手で、社会がどうこう言いながら、自分に都合の良い論理だけだ。
そんな 「 甘えん坊 」 さえも、国家が面倒をみてあげられるなら、もちろん、それにこしたことはないわけで、増殖しているなら避けられないだろう。
ただし、一企業に要求できる 「 わがまま 」 ではなく、そんな人物を押し付けられる企業の立場になれば、たまったものではない。
つまり、「 企業にも社会責任の一端を担う努めはあるが、それがすべてではない 」 ということを忘れてはならないのである。
大半の企業では、経済活動のほうが優先され、そこには 「 個人の甘え 」 などが介入できる余地は少ない。
だから、「 心の病気 」 や身体の障害を持った人たちも、出来うるかぎりは自分で努力し、足りない部分は一企業でなく、国家が支える責務がある。
誰とは言わないが、日ごろから 「 日本政府に対する悪態 」 ばかりを罵っている御仁には、いまさら国の庇護を受け難いだろうが、それが事実だ。
それを 「 経済優先で、福祉がないがしろになっている 」 と考えるのは曲解というもので、「 税 」 や 「 年金制度 」 は、そのためにも存在する。
( 本日のおさらい )
「 儲かってない企業は、結局、誰もハッピーにできないよ 」
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