「 手紙とは、封筒に込められた期待です 」
シャナ・アレキサンダー ( ジャーナリスト )
Letters are expectation packaged in an envelope.
SHANA ALEXANDER
昭和四十年からの十年間に、「 電話 」 の普及率は飛躍的に伸びた。
国民百人あたり七・五台から、約四倍の二十八・二台に急増したという。
同じ時期に、逆に激減したのが 「 電報 」 の需要で、通数は八千五百万通から、五千五百万通へと下降している。
最盛期、昭和三十八年には九千五百万通もあった電報は、電話やファクスの普及とともに減り続け、昭和六十年には四千万通にまで落ち込んだ。
その後、電報は 「 メロディ電報 」 や 「 押し花電報 」 といったパッケージの高級化、父の日、母の日向けのプレゼントとしての需要を開拓する。
そして、わずかに上向きかけた後、今度は携帯電話、Eメールなどの新しい通信メディアにおされ、ついには三千万通台にまで数を減らした。
もはや電報は、慶弔関連の需要も含め、通信手段というよりは 「 ギフト 」 としての性格でしか、人々に用いられる機会がなくなってきている。
現在、電報の九割以上は一刻を争って配達するものでなく、お祝いやお悔やみといった慶弔電報であり、決められた日時に届けられるものだ。
数十年前、往時の電報は 「 とにかく早く届けなければならないもの 」 として何よりも優先され、人々の暮らしの中に根付いていた。
配達者は、雨の日も雪の日も自転車を駆り、全速力で電報を届けた。
経験者の話では 「 電報屋とわかれば、必ず競争を仕掛けてくる奴がいた 」 そうだが、日ごろの鍛錬により、路上レースでは不敗を誇っていたという。
立ち入り禁止場所でも、雑踏の中でも、彼らは常に道を譲られ、真夜中に寝ている人をたたき起こしても、一度も文句を言われたことはないらしい。
マルチメディアの世の中になって、電報は 「 ご用済み 」 となり、いづれ安らかに死を迎えることになるのだろうと、誰もが思い始めていた。
だが、そうではなかった。
電報はギフトメッセージではなく、通信メディアとしての力をちゃんと持っていたことが証明されたのである。
阪神・淡路大震災の折り、電話線が破壊され、また殺到した通話のため、ラインの容量がパンクし、通話不能の状態が長く続いた。
そのとき、昔日の記憶がある五十代以上の人々は、見舞いや安否を気遣うために、現地へ電報を打ったのである。
あの日、自衛隊と相前後して、東京、東海、兵庫県以外の関西地区から、多数の電報配達員たちが被災地へ駆けつけた。
彼らは自らの危険も顧みず、瓦礫を乗り越えて電報を届けていた。
電話やガス、電気の復旧については新聞やテレビのニュースが刻々と伝えていたが、その事実はまったく報道されていない。
焼け落ちた建物の壁に人間の形にすすがついていたり、道にはまだ遺体があったりしたが、それでも彼らは配達を続けた。
それは、「 この電報だけは、どうしても届けなければならない 」 という、昔と変わらぬ 「 電報屋の心意気 」 というものがあったからだろう。
携帯電話は便利だし、メールの手軽さは通信に 「 楽しさ 」 を与えた。
しかし、人の手から手に渡る手紙や電報の重みは、それとは違う 「 何か 」 があり、受け取った場面や、背景も含め、記憶に残ることがある。
単に、アナログに回顧するノスタルジックな想いだけではなく、災害時など、先端技術が無力化した際には、切り札として頼みの綱になることもある。
新潟へ、電報に想いを託した方も多いだろう。
現在、電報は NTT から配達業務を請け負っている 「 財団法人 電気通信共済会 」 他、民間の委託会社によって届けられている。
( 本日のおさらい )
「 アナログを馬鹿にするなかれ 」
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