Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2004年10月25日(月) 震災の影に美談あり


「 人にものを与えてもそんなことは覚えていず、人から貰ったことは

  忘れない人たちは幸いである 」

      エリザベス・ビベスコ ( イギリス首相を務めた Asquith の娘 )

Blessed are those who give without remembering and take without forgetting.

                          ELIZABETH BIBESCO



そんな人が本当に居るのかというと、実は居るのである。

新潟で起きた地震の報に触れ、ふと数年ぶりに思い出した。


京阪神で暮らす者にとって、「 阪神大震災 」 は未曾有の大惨事だった。

おそらく、この先数十年の歳月を経たとしても、当時の衝撃が記憶の中で薄まることなどなく、それはきっと孫子の代まで語り継がれていくことだろう。

あの地震が起きるまで、私を含めた関西に住む多くの人は 「 関西には大地震が起きない 」 という盲信を、さしたる根拠も無く抱いていたように思う。

事実、それまでは、東京に住んでいた頃には日常茶飯事だった小規模の地震すら、大阪で体験することなど滅多になかった。

震災が発生した瞬間も、私の脳裏に浮かんだのは、「 大阪でこんなに揺れているのだから、東京は壊滅したのではないか 」 という不安だった。


怖いモノの代表として、昔から 「 地震、雷、火事、親父 」 が挙げられる。

最近では 「 親父 」 の威厳が損なわれてしまい、どうも代表を降板したほうがよさそうな気配もあるが、他の三つについては、伝統を受け継いでいる。

しかしそれも、関西人にとっては 「 震災以後 」 の話であり、それ以前には地震の脅威について、どうもピンとこない人が多かったはずだ。

さすがに今は 「 関西を震源地とした地震も起き得る 」 という説が浸透しており、地震がどれほどの被害を及ぼすのか、その恐怖も悟っている。

少し揺れただけでも、「 阪神大震災の再来か 」 と身構え、警戒するようになってきたのは、トラウマというより、地震に対する無知が改善された為だ。


私自身も、遠い親戚の姉さんを震災で亡くしたが、それはかなり後になってから知らされた訃報で、当初は、知人に被害が出ているとは知らなかった。

大阪も被災したが、交通機関やライフラインが途絶えることもなく、西隣の兵庫県へのアクセスが分断されただけで、大きな被害はなかったのだ。

地震発生から、まる一日を過ぎる頃、すぐ隣の兵庫県が 「 陸の孤島 」 のような有様に晒されており、物心両面で救援を必要としていることを知った。

当時の心情を神戸の知人に聞くと、「 本土から置き去りにされた沖縄県民の気持ちが少しわかった 」 という声もあったほどだ。

それで、仲間に声を掛け、被災地に救援物資を運んだり、余暇を活用して何かの役に立つ方法はないかと、思案をめぐらせた。


既に多数のボランティアが活動を開始していたし、素人の小集団に出来ることも限られていたので、我々は被災地の知人を訪ねることにした。

特に気になっていたのは、芦屋市 ( 兵庫県有数の高級住宅街 ) の山手にそびえる豪邸に住む某女史のことであった。

彼女は 「 超 」 が付くほどの大金持ちの一人娘で、何度か遊んだことはあるけれど、浮世離れしているというか、まるで庶民的な部分がなかった。

きっと、心細い思いをしているだろうし、庶民に比べ 「 サバイバル能力 」 が欠けているだろうから、飲まず食わずで困窮しているに違いない。

そう確信した我々は、ペットボトルの水と、ありったけの食料を担いで、電車が西宮まで復旧した途端、そこから芦屋を目指して歩いたのである。


西へ向かうほど建物の損壊が激しく、道路の陥没、軌道の歪みなどが視界をよぎり、死傷者を見たわけでもないのに、自然と目頭が熱くなってくる。

相手は違えど、いつもデートコースの定番にしていた神戸の街が、修羅場と化していることを思うと、胸が詰まる思いだった。

大阪を出る頃には 「 ピクニック気分 」 だった者も、しだいに口数が少なくなり、皆、荷物を担いで黙々と歩を進める。

やがて、彼女の家に近づくと、我々は 「 無事でいろよ、俺たちが来たから大丈夫だ 」 という思いで結束し、最後の急坂を一気に駆け上った。

うれしい誤算だったが、予測に反して彼女の家は目立った損壊もなさそうで、この様子ならきっと 「 間違いなく生きている 」 と誰もが確信した。


立派な門構えは激震に耐え、威風堂々とした佇まいを保っている。

一同を代表して私が呼鈴を押し、彼女に不安を与えないよう、全員が微笑を浮かべながら返答を待った。

しかしながら返答はなく、二度、三度と繰り返してみるものの、邸内からは人の気配すら漂ってこないので、だんだんと不安になってくる。

呼鈴が壊れている可能性もあるので、中庭を覗きながら名前を呼んだり、裏口に回ったりして、各人が声をあげた。

ほどなく、隣家のご夫人が現れ、必死の形相の我々に声を掛けた。


「 あのぉ、○○さんなら、ご一家で大阪の “ △△△ホテル ( 超高級ホテル ) ” に滞在なされてますよ 」

いわゆる 「 あんぐりと口を開ける 」 というのは、当時の我々のような間抜け面を指すのであろう。

物資を 「 十分にあるから要らない 」 と拒む隣家のご夫人 ( やっぱり同じく大金持ち ) に押し付け、身軽になった我々は帰路についた。

後日、ホテルに彼女を訪ねると、震災直後、お父上の会社の方が一目散に駆けつけ、その日の内にチェックインしたそうである。

とりあえず 「 2ヶ月間 」 はスイートルームを抑えてあるのだと、贅を極めた極上の部屋で、優雅に 「 アフタヌーンティー 」 を啜り、彼女は答えた。


誰も悪くないのだが、ちょっと 「 ムカツク 」 話であった。

その気分を変えてくれたのは、彼女の 「 お父上 」 の美談である。

震災後、彼女のお父上に対して、某自治体の方から 「 多額の寄付金 」 をくださるという連絡が来たそうである。

彼女のお父上自身、「 自分は金持ちである 」 ということは自覚しているので、我々同様、「 どうして寄付をくれるのか 」 という疑問に首を傾げた。

当の本人は、そんな自治体に 「 一度も 」 行ったことがないのである。


実は、阪神大震災 ( 1995年1月 ) の少し前 ( 前年の年末 )、東北で大きな地震があり、その際に彼は多額の寄付をしていたのである。

1ヶ月も経っていない間に彼自身が被災したので、某自治体は 「 お気の毒なので返上しますが・・・ 」 という意志で、打診してきたらしい。

それを聞いても彼は、「 そうだっけ? 」 と覚えていない様子である。

当然、「 お金が有り余っているから 」 とは言わず、ご好意は誠に有り難いが、お気遣いなくという返事をし、丁重に申し出を断ったそうだ。

徒労に終わった我々の慰問にも大感激してくださり、豪華な食事をご馳走してくださったことも、ちょっとほろ苦い 「 美談の思い出 」 である。


( 本日のおさらい )

「 あれはけして “ ボケ ” ではなく、美談だった ( と思いたい ) 」






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