「 哲学で唯一深刻な問題は、自殺である 」
アルベール・カミュ ( 作家 )
There is but one truly serious philosophical problem and that is suicide.
ALBERT CAMUS
都会では、自殺する若者が増えている。
井上陽水さんの 『 傘がない 』 という歌の、最初の部分である。
インターネットで知り合った見知らぬ者同士が、車の中で練炭を燃やしたりして、いわゆる 「 集団自殺 」 を謀るという事件が、各地で勃発している。
他人を信じたり、友好を築く能力に欠けている者達が、ネット上の関係という 「 都合の悪い部分は見えない関係 」 で、架空の 「 同志 」 を獲得する。
それは、ただ単に 「 よく知らない相手だから、嫌いな部分が見えていない 」 だけなのだが、短絡思考の人間には、違った錯覚を起させる。
つまり、「 彼こそが、初めて知り合った “ 理解しあえる同士 ” 」 なのではないかという誤解であり、生身の人間が抱く友情とは異なる。
人間の奥底にある 「 ドロドロしたもの 」 を見ることも、他人に見せることからも逃避した者達による、うわべだけのコミュニケーションの始まりである。
そもそも、自殺すること自体が 「 逃避行動 」 であり、卑劣な臆病者であることを示しているが、一人でやり遂げる意志もないのは最悪の部類である。
なんとかして 「 共犯者 」 を手繰り寄せ、自分だけが 「 落伍者 」、「 根性なし 」 ではないかのように、みじめったらしい末路を美化しようとする。
年間、国内で3万5千人近くも自殺しているのだから、これは自殺する個人の問題ではなくて、世間が悪いのだと詭弁する連中もいる。
でも、裏返せば 「 国民の99%以上は自殺しない 」 のも事実で、やはりは世間よりも、自殺する個人に、大きな問題があると考えるほうが正しい。
つまりは、「 世間が悪くなった 」 ことよりも、「 自殺という卑劣な行為に走る狂人 」 が増えたと理解するほうが、より実態に近いはずである。
一部のマスコミなどは、それを面白おかしく、社会の問題として複雑化させようとし、自殺という行為自体は本来の 「 憎悪の対象 」 から遠ざける。
たしかに、そういう不心得者が増えている背景に、社会全体の問題があり、課題を残していることも、まるっきり否定はできまい。
しかしながら、現実的に自殺を減少させるためには、たとえそれが 「 言論統制 」 と罵られようが、反社会的な分子を殲滅するほかない。
ネット上の 「 自殺サイト 」、「 自殺支援サイト 」 を排除し、世の中から自殺を美化する思想を消し去らないと、精神の弱い者はどんどん巻き込まれる。
また、過去に自殺を企図した者は 「 要注意人物 」 としてマークし、不遜な暴論を社会に撒き散らさないよう、監視を徹底すべきである。
己の生命を軽んじている者は、自殺することを 「 自由な権利 」 だと誤解している大馬鹿者が大半で、根本的に間違っているのである。
本来なら、自殺企図 ( 未遂 ) があった時点で、実行者は捕らえ、徹底的に思考の矯正を行うことが望ましい。
施設に収容し、少しづつ痛い目に遭わすなどして、「 生きたい 」 とか、「 生きることの有り難さ 」 を思い知らせるべきなのである。
現実問題としてそれが不可能であれば、せめて、そういう輩の 「 社会における発言権 」 を奪い、連鎖的に他者へ影響を与えることは防ぐべきだ。
どうしても自殺がしたければ、何人にも遺体を発見されないような方法で、人知れず、自分だけが消滅する方法しか無いようにすべきなのである。
いつの時代にあっても、世の中がどれほど素晴らしいものであっても、自殺する者は存在するわけで、やはり社会より個人に問題がある。
それを穿き違えてはならず、まずは自殺という行為を 「 忌むべき、最低の行為 」 として、共通認識を徹底することが大事だ。
自殺が増えている背景には、不況などの社会情勢以上に、それを許す 「 生命に対する社会認識の甘さ 」 があるのではないか。
やるならやれ、ただし失敗すると 「 地獄が待ってるぜ 」 というぐらいの制裁を準備し、自殺に対する畏怖を与えるなどしないと、問題は解決しない。
自殺という行為を蔑み、自殺企図者に対して厳しい目を向けていかないと、世の中は悪い方向に引きづられてゆくことを忘れてはならない。
( 本日のおさらい )
「 自殺は、個人に与えられた権利ではない 」
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