Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2004年09月27日(月) アメリカ史上、もっとも残虐な行為


「 たとえあなたが正しい道にいるとしても、そこに座っているだけでは、

 車に轢かれてしまうだろう 」

                  ウィル・ロジャース ( アメリカの喜劇俳優 )

Even if you're on the right track, you'll get run over if you just sir there.

                                WILL ROGERS



ここで [ on the right track ] は、「 ( 考えや行為が ) 正しい 」 という表現。

走路である [ track ] と、[ get run over ( 轢かれる ) ] の言葉遊びだ。


洋の東西を問わず、人気のある喜劇役者には 「 風刺の達人 」 が多い。

己の 「 身の程 」 をわきまえてか、政財界のトップのように正面から物申すのではなく、駄洒落やジョークに他意を忍ばせて、大衆の賛同を求める。

歴史上、それは 「 権力に対抗する手段 」 として用いられたことが、一般的に広く知られているが、けして、そういう場面ばかりでもない。

冒頭の一節は、権力者というよりも、むしろ 「 一般大衆 」 に呼びかけたものであり、「 大勢を占める民意に、異論を唱えた 」 内容と伝えられている。

文中に込められた 「 さぁ、行動を開始しましょう 」 といった言葉の真意は、当時の時代背景から鑑みると、「 戦争 」 を示唆した可能性が高い。


時折、「 私は戦争が嫌いです 」 とか、「 平和を求めます 」 などと、声高に主張する人をみかけるが、どうも違和感を持ってしまう。

なぜかというと、「 戦争が嫌い 」 などという感情は、世界中の圧倒的多数を占めるであろう 「 全人類に共通する、当然の人間感情 」 だからである。

そんな 「 当たり前の気持ち 」 を議論の場に持ち出し、自分だけが特別な平和主義者であるかの如く、青筋立てて力説する神経が理解できない。

軍備が必要と説く者も、憲法の改正を是とする意見も、あるいはイラク戦争の支持者にしても、けして 「 戦争がしたくてたまらない野蛮人 」 ではない。

大抵は皆、「 できることなら戦争なんてしたくない 」 と願いながらも、祈るだけでは願いが達せられそうもないことを危惧し、対策を考えているはずだ。


イラク戦争について様々な議論が起き、是か非かの決着はついていない。

あれは 「 ブッシュ大統領の暴走 」 だと、考える人もいるだろう。

しかしながら、それでは 「 別の誰かが大統領だったら 」 戦争は避けられていたと、考えることが妥当なのだろうか。

大統領選挙を前にブッシュ氏を非難し、「 こんな奴にやらせていいのか 」 と毒づく人も多いが、かといって彼らが、ケリー氏を応援するわけでもない。

個人的な意見だが、アメリカにはアメリカの、日本には日本の、役割と立場というものが存在するかぎり、誰が宰相でも選択肢は同じだったと思う。


かつてアメリカは日本に原爆を落とし、朝鮮半島を二分し、ベトナムの森林を焼き払ったが、それが彼らにとって 「 最大の罪 」 であろうか。

これら 「 アメリカ がしたこと 」 について責任を問う人は多いが、それでは 「 アメリカ のしなかったこと 」 に、罪はないのだろうか。

ドイツがポーランドに侵攻し、第二次大戦は始まった。

ヨーロッパは戦渦に包まれ、ファシズムの脅威に怯える自由主義諸国と、民族浄化の名のもとに迫害を受けた人々は、アメリカに救いを求めた。

もし、もっとアメリカが素早く参戦していれば、どれだけ多くの罪なき人々が救え、あるいは 「 戦争そのもの 」 を未然に防げたかわからない。


あまり知られていない話だが、第二次大戦の直後、ソ連の強制収容所で、何千、何万という数のポーランド人が、命を落としている。

しかもその多くは、ポーランドで捕虜になったわけではない。

戦争が終わり、米軍によってドイツの収容所から解放された彼らは、なんとアメリカ人によってロシアへ送られたのである。

ソ連は、彼らを処刑または奴隷化するため、すべてのスラヴ人の本国送還を希望し、ソ連と波風を立てたくないアメリカは、それに従ったのだ。

米軍は彼らを一ヶ月間、難民収容所に入れてからソ連軍に引渡し、結果、「 ヒットラーの手が届かなかった分 」 は、スターリンがやってのけたのだ。


私は、ベトナムより、イラクより、あるいは広島、長崎よりも、この事件こそが 「 アメリカ史上、もっとも残虐な行為 」 であると思っている。

超大国というものは、ときに 「 なにかを始める 」 ことよりも、不幸な人々を前に 「 なにもしない 」 ことのほうが、残虐で、罪の重い場合がある。

自衛隊のように、「 使わないために存在する力 」 ではなくて、米軍は人を殺すことも、救うこともできる 「 使うために存在する力 」 を擁している。

それは、自らの利害に関わり無く、必要とされれば動かざるをえない宿命を背負っており、反することは 「 彼らが、彼らでなくなること 」 を意味する。

逆に日本の場合は 「 使わない 」 ことに、その価値のすべてがあり、同じように兵を進めても、「 アメリカと共に参戦した 」 とは考え難い。


アメリカ人の多くは、他国のイザコザにチョッカイを出して失敗した話だけではなく、慎重になりすぎて 「 見殺しにした事実 」 を忘れていない。

無論、「 正義の軍隊だ 」 などと名乗るのは 「 うぬぼれ 」 というものだが、弱者を見捨てて安住の地に暮らすことも、けして名誉な話ではない。

戦争を擁護するわけでもないが、他国の不幸を見聞きして、火の粉がかからない場所で 「 見てみぬフリ 」 をすることが 「 平和主義 」 なのだろうか。

アメリカは実戦部隊を配備し、日本は後方支援に徹する。

それを 「 戦争への加担 」 だとか、「 軍国主義への回帰 」 だと思う人もいるだろうが、私は 「 自然で適切な役割分担 」 だと認識している。


( 今日のおさらい )

「 見てみぬフリで見殺しにして、はたして平和主義者といえるかな? 」






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