「 他人を正そうと情熱を傾けること自体が、難儀な病気です 」
マリアン・ムーア ( 詩人 )
The passion for setting people right is in itself an affictive disease.
MARIANNE MOORE
昔から、「 春になると、妙な人たちが現れる 」 などという。
近頃は、年がら年中、そういった傾向があるようだ。
どうせ生きていくなら、目的や、理想のようなものを掲げながら、その領域に近づこうと邁進する 「 情熱的な生き方 」 が望ましいと思う。
あくまでも一般論だが、刹那的に、無気力に生きている人より、もっと人生に真正面から向き合い、精力的に生きている人の方が魅力的に映る。
ところが、そんな情熱たちも 「 向けるべき対象 」 や 「 方向性 」、あるいは 「 情熱を語る立場 」 によっては、奇異にしか見えない場合がある。
最近の例でいうと、「 宅間死刑囚の妻 」 なんて人が現れ、必死で妙ちくりんな論理を展開しながら世間を騒がせたが、まるで誰にも理解されない。
元々知り合いでもなく、事件後に 「 獄中結婚 ( 奥さんは娑婆だが ) 」 したような関係で、どうして情熱的に解放を訴えられるのか、まったく解せない。
また、「 プロ野球機構と選手会の会談 」 において、12球団の代表がそれぞれの意見を述べる中に、「 合併する2球団 」 が含まれているのも変だ。
当然、自分たちの生活に影響のある選手会や、採算を重視する球団側が、お互いの主張を熱っぽく繰り広げるのは自然であり、理解もできる。
しかしながら、継続を放棄した球団の代表までが、プロ野球の今後について 「 あーでもない、こーでもない 」 と意見を述べる権利が、どこにあろう。
まるで自分たちには責任が無いかのごとく、好き勝手に発言している様子をみると、なんとも首を傾げてしまうのだが、意外と誰からも指摘されない。
諸問題について、彼らが何か発言するたびに、他球団の代表や、選手会が一斉に 「 オメェらのせいだよっ! 」 ってツッこんでも、よさそうなものだが。
政治の世界に目を転ずると、学歴を詐称していた議員が、ようやく辞職することになったが、彼の語ってきた 「 情熱 」 も、空虚で身勝手なものだった。
単位が足りていなかったことが露見すると、「 今から取りにいきます 」 などと、誰も望んでいない努力をしようとし、世間から嘲笑されていた。
せめて、その時点で辞職していれば、多少は 「 潔さ 」 を評価できたかもしれないが、公職選挙法の捜査が及んでからでは、みっともないだけだ。
新宿の地下街では、「 通行の邪魔になるので、募金活動を禁止する 」 という布告が出て、これに反対する団体が、警察と 「 情熱的に 」 争っている。
これも、「 自分たちは正しいことをしているのだから、何をやっても許される 」 などと勘違いした連中の 「 時や場所を考慮しない身勝手 」 である。
なにかを 「 情熱的に語る 」 には、それなりの背景と、万民に支持されるような理論と、なにより 「 正しい目的 」 が求められる。
そこを間違ってしまうと、本人にとっては 「 情熱 」 でも、他人からみれば 「 ただの厄介者 」 でしかなく、迷惑このうえない存在となり得る。
私なんぞも、たまに熱っぽく 「 おバカな人々 」 を糾弾したりしているが、これも大半は 「 ほっときゃいい 」 ことなのかもしれない。
どうせなら、そんな連中にかまっているより、マトモな人たちと交流する時間を多く持ったほうが、自分のため、社会のために望ましい。
情熱とは、かけがえのない 「 人間の生きる意志 」 でもあるが、くれぐれも方向や目的を誤らないようにしなくては、世間の迷惑にしかならないようだ。
( 本日のおさらい )
「 間違った情熱は、他人からみればただの厄介者 」
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