「 人間は、何事も人に教えることなどできない。
ただ、人が自分の中にある能力を発見するのを手伝うことならできる 」
ガリレオ・ガリレイ ( 天文学者、物理学者 )
You cannnot teach a man anything; you can only help him to find it within himseif.
GALILEO GALILEI
小学生の4割以上が、「 天動説 」 を信じているという報道を目にした。
正確に言うと、「 信じている 」 というより 「 真実を知らない 」 だけだが。
17世紀、イタリアの天文学者 ガリレオ は、「 それでも地球は動いている Yet the earth does move 」 と説き続け、宗教裁判で極刑を言い渡された。
そんな苦労の甲斐も無く、地球の仕組みやら、太陽の昇る方向やら、月の満ち欠けのメカニズムやらに、今の子供たちは興味が薄いようだ。
これを、「 学習プログラムの簡略化 」 だとか、文部省の責任にすることは容易いが、それだけの問題でもないような気がする。
いわゆる 「 常識的な事柄 」 というのは、カリキュラムに織り込まれているかどうかよりも、親や教師が子供に対する 「 日々の接触 」 で学ぶものだ。
私自身、「 地動説 」 は理科の授業ではなく、親か教師に薦められて読んだ 「 ガリレオの偉人伝 」 で知ったのが最初だったように記憶している。
基本的に、「 子供がバカ 」 なのは、親や教師の責任が大きい。
子供を対等の人格として尊重することと、その成長過程を子供自身の責任として傍観することは別の問題で、勘違いしてはならない部分である。
ただし、やみくもに押し付けたり、ノルマを課すだけが教育ではなく、その前段階として、学問に興味を持たせることが重要であろう。
このような 「 学習の動機付け 」 こそが、実は 「 できる子、できない子 」 を分かつポイントでもあり、子供にとっては大きな影響が与えられる。
良い親、良い教師というのは、その点をちゃんと心得ていて、子供が自発的に意欲をもって学問に向き合うための 「 アシスト 」 が巧いのである。
また、それが 「 生きるために必要な知識 」 ということであるならば、教え、学ぶ場所は、いつも学校の教室とはかぎらない。
家族団欒の食卓、夏の宵に縁側から眺める夜空、秋の紅葉見物、虫の声、すべてが子供にとって 「 教室 」 であり、学習の機会と成り得る。
そんな 「 昔は当たり前だった 」 ことが、今はまるで 「 なにか特別のこと 」 であるかのような違いが、学力の低下をもたらしているように思う。
あるいは、「 子供が欲する知識を、どのような方向に導いていくのか 」 ということについても、親子のコミュニケーション不足から、抑制がとれない。
結果、小学生でも携帯電話やメールを自由に使いこなせて、社会の裏側を覗き見したりできるが、「 太陽がどっちから昇るかわからない 」 のである。
今年の4月、アフリカのケニアでは 「 84歳の世界最高齢小学生 」 として、キマニ・マルゲさんという人が、ギネスブックに認定されたそうである。
家庭の事情で学校に通えず、読み書きができなかったマルゲさんは、昨年の10月、政府が義務教育を無料化したことで、進学を決意した。
毎日、授業の一時間前には学校に来て予習を始め、全科目が成績優秀の 「 A 」 で、ひ孫のような同級生たちも 「 おじいちゃんは優等生 」 と認める。
マルゲさんに将来の目標を尋ねたところ、彼は 「 このまま進学して大学を卒業し、獣医師になる 」 と話したそうである。
年齢的な背景については、「 あと何年かかるか分からないが、200歳まで生きるから大丈夫 」 と、笑顔で応えたらしい。
学問は、設備やら、教育機関やら、「 お金 」 の絡む問題ではない。
むしろ、「 動機付け 」 と、「 本人の資質 」 と、「 教師の質 」 に多大な要因があり、それらが複合的に交わって 「 出来、不出来 」 が決まる。
なかでも、「 教師の質 」 というのは、学校の教諭だけではなく、場合によっては親や、自然環境や、周囲の存在も含まれるだろう。
平均的な日本の小学生に比べ、マルゲさんの話は尊敬に値するが、惜しむべきは 「 失われた歳月 」 の問題である。
幼少期から高度な教育の機会が準備されている国にあって、その恩恵にも気づかず、時間を無駄にする我々は、まさしく 「 平和ボケ 」 なのである。
( 本日のおさらい )
「 常識的な事柄は、親や教師の子供に対する日々の接触で学ぶもの 」
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