2004年09月06日(月) |
国際社会の生々しい現実 |
昨日に引き続き、ロシアの学校占拠事件について考えていきたい。
考えれば考えるほど、はらわたが煮えくり返る事件ではあるが。
どんな行為にも、たとえばそれが戦争や、犯罪であったとしても、超えてはならない 「 一線 」 というものが、有形、無形に存在する。
目的のためには手段を選んでいられないというケースもあるだろうが、子供を標的にして多くの犠牲を出し、仮に勝利を得たとしても何になるのだ。
攻撃対象が屈服したとしても、首謀者に寄せられる評価は、卑劣きわまりないという恥辱だけで、同じ民族からも賞賛されることなどない。
まさに 「 狂気のなせる業 」 で、誰の得にもならない話だ。
こういう事件は、これが最初で、最後になってもらいたいと願う。
テロや戦争が人間の理性を奪い去るという現象は珍しくないが、それでも、小さい子供をみて 「 可愛い、愛しい 」 と思う気持ちは万国共通である。
目的を遂行するため、仕方なく巻き添えにすることはあっても、あえて学校という子供たちの世界を攻撃目標に定め、殺戮を犯す行為は前代未聞だ。
どうやら、「 人間が持つ最低限の良識 」 とか、「 尊厳というものの底辺 」 が、いつのまにか、その ハードル を下げてしまったようである。
過去のような 「 生易しいルール 」 が通用しない、冷酷非情で、残忍な振る舞いが平気で出来てしまう連中が、世界では台頭し始めている。
それでも日本は 「 丸腰 」 で、平和憲法のみを頼りに未来へ進むのか。
戦争に至る経緯は様々で、巻き込まれる理由も様々である。
日本が軍隊を持つことが戦争につながるという意見も多いが、実際のところ、本当にそういうものなのだろうか。
たとえば、子供時代の喧嘩を思い出すと、「 こちらから殴りかかった 」 わけでもないのに、相手に敵意を持たれたり、喧嘩になったことがある。
知らないうちに、相手の機嫌を損ねていたり、悪気はないのだけれど、相手にとって不利な状況をつくってしまうことだってある。
それを 「 逆恨み 」 と言ってしまえばそれまでだし、不当な暴力には武力をもって対抗するだけが手段ではないが、自衛に迫られる場面も多い。
軍隊を持たず、平和憲法を遵守し、デモに参加して戦争反対を叫ぶ人は、すべて平和主義者で、「 戦争の原因 」 をつくることはないのだろうか。
勤勉に働いていたというだけで、「 お前を含め日本人は働きすぎだ。だから生産過剰が起きて他国の経済を脅かしている 」 と恨まれることはないか。
こちらに 「 戦意 」 や 「 悪意 」 がなくても、結果として日本の存在が他国の不利益につながれば、相手が 「 敵意 」 を持つ可能性も否めない。
それは、利益の一部を還元する経済援助や、その他の外交努力によって避けられてきたわけだが、常にその方策が通用し続けるとはかぎらない。
ロシアで起きた学校占拠事件のように、「 弱者 」 や 「 無抵抗の相手 」 に、何の温情もかけずに刃を向ける危険は、日増しに高まっている。
北朝鮮、アルカイダ、チェチェン、テロや戦争は形を変え、手段を選ばない卑劣な手口が横行し始めている。
人間が本来は持っているはずの 「 善意 」 や 「 良識 」 に語りかけ、平和への理想を掲げる方法も、過去においては有効だったかもしれない。
しかし残念ながら、世界も、そこに住む人々も、少しづつ正気を失い始め、昔とはまるで違う実情を、認めざるをえなくなっている。
いまのところ我々は、アメリカや、戦時中の日本のように 「 正義の軍隊 」 を名乗り出る必要はないが、ある程度の武装は避けられまい。
無抵抗な者を狙う連中がいるということは、非武装でい続けることこそが、「 攻撃の対象 」 とされる危険を孕んでいるような気がしてならない。
( 私信 )
メールをくださった 「 Mさん 」 のご指摘どおり、例の日記の 「 父の日 」 に関する記載は削除されているようです。
削除するぐらいなら、はじめから書かなきゃいいのにね ( 笑 )。
しかし、「 ○○○○の日記 」 と書いただけで誰の日記か判るとは、皆さま方、同じような感想を持っておられるのですね。。。
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