2004年09月05日(日) |
世界を敵に回した狂気 |
ヒッチコック作品の一つに、『 知りすぎていた男 ( 1956米 ) 』 がある。
まさに、「 スリルとサスペンスの真髄 」 と呼ぶに相応しい映画だ。
何度も 「 リメイク 」 して再映画化され、また、設定や物語の展開を異としても、明らかにこの作品から影響を受けたと思われる作品が数多い。
ちなみに、この作品自体が、同じヒッチコックが以前にイギリスで監督をした 『 暗殺者の家 ( 1934英 ) 』 という作品の、自身による「 リメイク 」 版だ。
物語は、アメリカ人医師夫妻 ( ジェームズ・スチュアート、ドリス・ディ ) が、息子を連れてモロッコへ旅行に行くところから始まる。
旅の途中で、偶然に知り合ったフランス人の死に立会い、死ぬ間際に呟いた 「 要人の暗殺計画がある 」 ことを、医師は知る羽目になる。
犯人一味は、医師が計画を暴露することを恐れ、彼の息子を誘拐するが、医師は僅かな手掛かりを基に追い続け、暗殺者の潜む教会へ向かう。
手に汗を握るサスペンスばかりでなく、感動的な親子愛も描かれている。
また、劇中でドリス・ディが唄う、主題歌の 『 ケ・セラ・セラ 』 も大ヒットしたので、映画は観ていないが、主題歌は知っているという人も多いだろう。
実は、この映画の中で、とても印象に残っている台詞がある。
それは、犯人グループの幹部が、子供を誘拐してきた部下を叱りつけるという台詞で、よくは覚えていないが、だいたいは以下のような内容である。
「 馬鹿者め、アメリカ人は子供の誘拐には厳しいのだ。 彼らは国を挙げ、必死になって追いかけてくるぞ 」 というようなものだったと記憶している。
事実、子供を取り戻そうという医師の執念が、最終的に一味の逮捕にまでつながるのだが、誘拐がなければ、医師が活躍することもなかったはずだ。
また、最後のクライマックスで、人質の息子を殺せと命じられた部下の一人が、情にほだされて命を救う場面もある。
要人暗殺を計画しているような悪党でさえ、無垢な子供の命を奪い去ることには抵抗があるはずで、それこそが 「 人間らしさ 」 といえるだろう。
自分の子はもとより、たとえ利害があっても 「 子供だけは助ける 」 ことが、古きよき時代の犯罪映画の美学であり、誇りでもあったようだ。
その 「 タブー 」 を破壊してしまったら、たとえ内容が優れていたとしても、観客には 「 後味の悪い嫌悪感 」 しか残らなかっただろう。
ロシアで、未曾有の惨劇ともいうべきテロ事件が発生した。
犠牲者の数は 「 アメリカ同時多発テロ事件 」 より少ないかもしれないが、私自身として、「 犯人への憎しみ 」 はこちらのほうが強い。
なぜ、子供を標的にしたのか。
同時多発テロは、たしかに悪質ではあるけれども 「 戦争に準ずる行為 」 として、犯行グループの意図を窺い知ることもできる。
当然、子供の犠牲者も数多く出たが、あえて 「 そこを狙った 」 わけでなく、子供を標的にすれば 「 世界中を敵に回す 」 ことを知っていたはずだ。
たとえ、主義、主張、宗教や倫理観を共有する同志でも、このような蛮行を 「 大義名分のため 」 として認める者は少ないはずだ。
チェチェン武装勢力は、この瞬間にすべての 「 マトモな神経の支持者 」 を失い、おそらくはチェチェン領内でも、その立場を失墜させただろう。
ロシアが悪いか、チェチェンが悪いか、そういう問題ではない。
史上稀にみる 「 卑劣で悪質な殺戮 」 の背景には、どんな論理も存在し得ないし、どれほど話を湾曲させても、正当化する術はない。
何を目的として 「 世界中の悲しみと憎しみ 」 を演出したのか、私が納得できるような真相は、永遠に解明されないだろう。
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