オリンピックも閉幕し、子供たちの夏休みも終わりである。
まだまだ残暑は厳しそうだが、暦はもう秋に入る。
このところ久々に、高頻度で日記を更新してきたが、9月からはまた、少しペースダウンする見通しである。
というのも、「 新しい仕事 」 を始めることになったからだ。
現在も、細々と事業を行っており、それなりに食べてはいけるのだが、ある企業と顧問契約を結ぶことになり、そちらにもかなりの時間を割く予定だ。
いまさらながら、肩書きを増やしてどうなるというものでもないが、そろそろ、「 これからの人たち 」 に何かを与えるという仕事にも興味が出始めた。
この仕事に出会ったのは、単にお金の問題ではなくて、自分に課せられた使命のような気がするし、引き受けることに決めたのである。
もちろん、日記のほうも暇をみつけて、書き続けていきたいと思う。
私のような者が何を主張しようが、そう世の中に大きな影響はないだろうし、もともと世間に物申すような野心も、暇も持ち合わせていない。
しかし、混迷する時代の中で、他人の意見に耳を傾けたいという人は少なくなく、それに応える文章がすべて、良心に支えられたものとはかぎらない。
人格障害時代を象徴するかの如き 「 自分に甘く、他人に厳しい 」 といった不貞の輩による文章が闊歩する時代に、多少の警鐘は鳴らしたいと思う。
そのような 「 反社会的言動 」 が顕著なサイトに反撥する者がいて、それを支持してくださる方がいるのだから、稚拙な文章でも続けるべきだろう。
私の書く文章は、けして高尚で価値の高いものとは思わないが、少なくとも私自身の良心に反するものではない。
そして、「 私自身の良心 」 とは、生身の私が精一杯に働いて、悔いのないように遊び、人生を謳歌している背景に裏打ちされたものだ。
いくら立派なゴタクを並べてみても、挫折に耐えれず精神を病んだ者や、投げやりに人生を放棄して自殺企図を繰り返す愚か者とは、そこが異なる。
最近、そんな 「 お気の毒な人 」 が、私の文章に何かとケチをつける。
いまは 「 ただの落ちこぼれ 」 でも、もともとは高水準の教育を受けたであろう人物なので、なかなかに面白い指摘の仕方である。
たとえば、以前の日記で 「 公的資金として、国民の税を投入 」 ということを書いたが、それに対し 「 公的資金は国債じゃ 」 という反論をする。
たしかに、それはその通りで、相手の言っていることが正しい。
しかしながら、そんなことはいちいち指摘されなくても、誰しもが知っている事柄であり、「 税金を投入 」 と書いた理由は、「 尻拭い 」 の意味にある。
実際こういう風に、短絡的で 「 一つの言葉から全体を見渡せない 」 ところが、「 お気の毒な人たち 」 が普通の大人と違って、欠落している素養だ。
神経がマトモな人たちからみれば、なんともヘンテコリンな逆襲なのだが、本人は 「 鬼の首でも取ったか 」 のように、さぞや喜んでいるのだろう。
この人にかぎらず、いま、世の中をオカシクしているのは、それなりに教育を施されて、自分の学歴、経歴に過剰な自意識をもった人々が多い。
昔のように、ろくに教育も受けられず、不遇な生い立ちを抱えたままヤクザや裏稼業に手を染めた者たちが、「 秩序を乱す主役 」 ではないのだ。
東大を出て愚劣な猥褻行為で捕まる識者など、「 教育という最大の賜物 」 を無駄にする愚か者の、なんと多いことか。
私なんぞも若い頃には、ちょっとした成功で天狗になったり、なにかの拍子に 「 自分は特別な存在 」 だという錯覚を起したこともある。
それでも普通は、年齢を経て良識を身に付けたり、賢者の意見に耳を傾けることで、だんだん 「 身の程を知る 」 ことができるものなのだ。
身の程を知らないのが、いわゆる高学歴の人格障害者で、いわゆる 「 エリートのなれの果て 」 と呼ばれる人種である。
自分のことを心のどこかで 「 愚民とは違う 」 と過大評価し、また、別の心で 「 自分は最低の人間だ 」 と過小評価する。
その結果、挫折や窮地に立ち会った際、正しい手順で善処するといった 「 ごく当たり前のこと 」 をせずに、首を吊ってみたり、手首を切ったりする。
その心労を、医者に 「 病気です 」 と認定してもらうことで安心感を得ようとするのだが、そんなことで抜本的な解決には導かれない。
なんのことはない、「 身の程を知る 」 というだけで、本人も楽になれるし、他の人と同じように生きていけるのだが、それができないのである。
つまり、そういう人は、プライドと自意識が邪魔をして、「 凡人と同じように汗をかいて努力する 」 ということに、なかなか手がつけられないのである。
勉強して学校を出て、大きな会社に入り不眠不休で働き、早期退職して会社を興し、いまは 「 社長 」 とか、場合によっては 「 先生 」 と呼ばれる。
その結果、得たものは 「 運転手つきの高級車 」 でも、「 プールつきの別荘 」 でもなく、ましては 「 安住の土地 」 でもない。
従業員の女性から 「 掃除の仕方が悪い 」 と叱られ、電車代をケチって次の駅まで歩き、汗をかきながら銀行の窓口で待たされる。
今日も私は 「 すんませんなぁ 」 と愛想をふりまきながら、せっせと机を拭き、靴をすり減らして営業に廻るが、それなりに 「 ハッピー 」 である。
大事なのは、この 「 ハッピー 」 であるかどうかだろう。
もしも私が 「 身の程を知る 」 という資質を欠いていたら、同じ状況でも 「 不幸 」 や 「 憤り 」 を感じたかもしれない。
また、「 自分にとって、本当は何が大事なのか 」 ということが見えない人は、つまらないことを気にしすぎて、やはり 「 ハッピー 」 になれない。
他人の汚した便器を 「 なんで俺が 」 と嘆きつつ掃除するか、「 清掃会社に払う費用が浮いたので、また遊びに行ける 」 と思うかで、雲泥の差がある。
私にも 「 世の中への不満 」 はあるが、悪いことはすべて他人や社会のせいにして、自分は 「 ハッピー 」 じゃないという人の意見よりはマシだろう。
見た目のカッコよさ、頭のよさに騙されてはいけない。
頭がよくても、世の中を嘆いて自殺企図する人には、それが生きるための 「 ツール 」 になっていないわけで、何の役にも立っていないのだ。
いくら 「 自分は正しい 」、「 自分は物知りだ 」、「 自分は頭がいい 」 と連呼しても、彼らの意見はなんの説得力も持たない。
そんな意見を参考にして、感化されたところで、結局はその人が 「 ハッピー 」 ではないのだから、いきつく先は 「 アンハッピー 」 でしかないのだ。
自慢でも宣伝でもないが、事実として私は 「 ハッピー 」 なので、そうありたいと願う人には、こちらのほうが参考になるのではないかと思う。
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