アテネ五輪は、日本人選手による 「 期待以上の活躍 」 に湧いている。
連日、寝不足で出勤する方も、多いのではないだろうか。
近代オリンピックの第一回目大会は、108年前にアテネで行われた。
だから今回は、「 オリンピックが故郷に帰る 」 記念すべき大会でもある。
しかし実は、いまからおよそ2800年も前からオリンピックは行われており、これを 「 古代オリンピック 」 という。
当時のギリシャは、いくつもの小国に分かれており、紛争が絶えなかった。
そこで、平和を願う国王の一人が、神から 「 スポーツ大会を開けば、平和が訪れる 」 という “ お告げ ” を聞いたことで、始まったとされる説が強い。
あくまで伝説だし、「 神が〜 」 という時点で科学的に証明されないのだが、過去、オリンピックが紛争解決に果たした役割は、たしかに認められる。
人間には 「 闘争する本能 」 みたいなものがあるだろうし、国家というものは、「 威信をかけて国力を誇示する 」 ような習性を孕んでいる。
戦争をする代わりにスポーツで戦えば、誰も傷つかずにすむし、皆が一同に会することによって、お互いが仲良くなる可能性も増えるはずだ。
また、当時は 「 オリンピック停戦 ( オリンピックの期間は戦争をしない ) 」 という協定があり、遵守されたので、その点でも平和に貢献したのである。
その後、オリンピックは長い中断を経たが、今度はヨーロッパ全土で戦争の機運が高まったので、「 近代オリンピック 」 が提唱され、実施されたのだ。
近代オリンピックの開催を呼びかけたのは、フランスの 「 クーベルタン 」 という人物であることが広く知られている。
しかしながら、“ お告げ ” を聞いたとして、古代オリンピックの開催に尽力した人物は、「 ある国の王 」 という程度にしか記録されていない。
この二人、いづれも偉大な人物であろうけれども、「 平和のため 」 と言ったクーベルタンより、「 神が〜 」 と言った王のほうが、曲者で、賢者である。
信仰心の強くない者でも、「 神が〜 」 なんて言われちゃうと逆らいにくいし、2千年以上も昔の世界では、さぞかし有効な説得力をもっていたはずだ。
ひょっとすると、その頃は、今と違って 「 神の存在が身近に感じられた 」 のかもしれないが、私は、その王の 「 狂言 」 が始祖ではないかと思う。
紛争の歴史は、人類の歴史でもあり、解決策は 「 永遠のテーマ 」 である。
平和を欲する者は多いが、歴史上、有効で、具体的な解決策を提示できた者は数少なく、たいていは、「 戦争の悲劇を憂い、情に訴える 」 だけだ。
広く 「 平和の祭典 」 として支持を得てきたオリンピックも、角度を変えれば 「 戦争の代替案 」 という見方ができなくもない。
それでも、領土や陣地の奪い合いをするより、メダルの獲得数を競い合うほうが、はるかに平和的で、傷つく者も少ないはずである。
中国で開かれた 「 サッカー・アジア杯 」 では、加熱した中国側の応援団が暴徒化したりもしたが、本来、スポーツは 「 平和の特効薬 」 なのだ。
とはいえ、オリンピックだけで、すべての紛争が収まるとは思えない。
古代ギリシャと違って、「 神が〜 」 と叫んだところで、誰も聞く耳を持たないだろうし、それに、世界には 「 いろんな神 」 に対する信仰の違いがある。
むしろ、それぞれの信じる 「 神の違い 」 が紛争の潜在的な要因になっているケースも珍しくなく、かえって物事を複雑にするばかりだ。
今日では、力量の計り知れない 「 異教の神 」 よりも、誰もが威力に関して共通の理解を示す 「 核 」 のほうが、神格化し、畏怖の念を持たれる。
核のみが、全人類を 「 ひれ伏させる 」 力を持つ神と、言えなくもない。
当然、「 スポーツの祭典で、世界の友好と、親睦を深める 」 ことと、「 核の抑止力を利用して、お互いが手を出せない 」 ことが、同一ではない。
しかしながら、たとえ荒っぽく、品の無い手段でも、信仰や倫理観の異なる多民族が、互いに侵食せず、共存する社会を維持しなければならない。
時代と共に、「 平和のありかた 」 は姿を変え、対応の仕方も変わる。
過去はともかく、少なくとも今は 「 憲法9条によって、恒久的な平和が約束される時代 」 ではないだろう。
改憲こそが 「 平和のための代替案 」 とは言わないが、それ以上に有効な “ お告げ ” が無い以上、避けては通れない道のように思う。
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