日本人の多くは倹約を美徳とし、贅沢や、無駄遣いを善しとしない。
その習性は、堅実で奥ゆかしい、独自の文化にも繋がっている。
ネット友達の一部に、私のことを 「 お金持ち 」 だと誤解している人がいて、「 魔法の財布を持つ紳士 」 などと、不似合いな呼称をいただいている。
実際のところは、お金持ちでもなければ、浪費家でもない。
むしろ、どちらかといえば 「 ケチ 」 と呼ばれる部類に属し、相場よりも高いモノを買わされたり、無駄なお金を使うことには、かなり抵抗が強い。
独身ということもあって、遊興費やら、交際費に割く金額は 「 一般的なサラリーマン 」 に比べれば多いかもしれないが、「 無駄遣い 」 とは異なる。
必要と認めるものには投資し、無駄と思えば、一切お金を使わない。
たとえば、「 一流ホテルの宿泊割引キャンペーン 」 を利用するのと、安いホテルに定価で宿泊するのとでは、どちらが 「 無駄遣い 」 なのか。
仮に、前者のほうが多少値段が高かったとしても、サービスや、居心地などの対価を換算すれば、「 お得 」 であることが多い。
他人からみれば、立派なホテルに泊まったり、それなりの場所で食事をしたりする姿が 「 贅沢 」 に映るかもしれないが、けしてそうではない。
彼女とホテルに泊まっても、室内に備え付けられている 「 相場よりも、べらぼうに高い飲み物 」 などには、一切、手をつけたりしない。
彼女が勝手に飲もうとしたものなら、「 100m先のコンビニで買って来い。いや、お前のような奴は、2km先の安売店まで走れ! 」 と指示を出す。
ようするに、「 本当に価値のあるモノ 」 に対する投資は惜しまないが、安い値段で買えるものを、格好つけて高く買うような愚行はしたくないのだ。
お金の値打ちというのは、効果的に使うことによって上がったり下がったりするもので、無駄遣いも避けたいが、使わなければ真価は発揮されない。
人より多くのお金を使っているとすれば、人より多く稼いでいるのも事実で、また、人より多く稼ぐためには、それなりの出費も伴うのが普通だ。
お金の使い方の中で、特に難しいのが 「 先行投資 」 と呼ばれる類のもので、これは結果しだいで、「 生き金 」 にも 「 死に金 」 にもなる。
例を挙げると、子供に特別な教育 ( お金の掛かる ) を受けさせる場合など、将来においての、その子の活躍に価値は左右されやすい。
皆さんは、小泉首相の所信表明演説 ( 平成13年5月7日 ) にも登場した 「 米百俵 」 の逸話について、覚えておいでだろうか。
明治初期、戊辰戦争で焼け野原となった長岡城下に、支藩の三根山藩 ( 現在の新潟県西蒲原郡巻町 ) から見舞いで、百俵の米が寄贈された。
しかし、ときの長岡藩の大参事 「 小林虎三郎 」 は、この百俵の米を藩士に配分せず売却し、その代金を国漢学校の資金に注ぎ込んだ。
食べるモノにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手がでるような米ではあったが、長岡藩は 「 将来への投資 」 に賭けたのである。
結果、国漢学校は長岡の近代教育の基礎を築き、ここから 「 新生日本 」 を背負う数多くの人物が輩出されることとなった。
国が興るのも、町が栄えるのも、ことごとく 「 人 」 に依るところが大きく、食えないからこそ学校を建て、人材を養成するのだという発想だ。
このように、「 目先のことばかりにとらわれず、明日をよくしよう 」 といった思想は、人材教育の指針や理念となって、今の世にも続いている。
百俵の米も、食べてしまえば一時の空腹を満たすだけに終わるが、未来へ投資することによって、数千俵、数万俵の価値を得る可能性もあるのだ。
首相がこの逸話を選んだ伏線にも、厳しさを増す経済情勢の中にあっても、将来へ向けた改革を推進することに、国民の理解を得たかったのだ。
それらがすべて正しかったかどうかは別としても、教育とか環境保全などの 「 成果が挙がるまでに時間の掛かる投資 」 も、ある程度は必要だろう。
このところ、「 長期在外研究員制度 」 が、疑問視され始めている。
この制度は、多様化する国際情勢に対応できる 「 キャリア官僚 」 を養成する目的で、昭和41年に開始されたものである。
留学は職務命令の出張扱いで行われ、二年間で一人当たり八百万円前後の給与のほか滞在費、授業料など約一千万円の経費がかかる。
このたび、平成九年度から五年間に国費で海外留学した若手キャリア官僚のうち、十人に一人が 「 留学後に早期退職 」 していることが判明した。
そこから、退職した四十七人分、約八億五千万円に上る税金が、授業料や旅費などの名目で 「 “ 無駄遣い ” されている 」 と、騒がれ始めたのだ。
たしかに、彼らは 「 海外留学で培った成果を( 帰国後も ) 引き続き職員として公務に生かす 」 という誓約書を交わしている。
だから、法的に 「 返還の義務 」 が無くても、早期退職者に支払った経費は、当初の目的に合致しないし、一見、無駄なようにも思える。
当然、それらの費用は税金によって賄われているわけだから、マスコミや、一部の人々から 「 税金の無駄遣いだ 」 と非難の声が出ているのだ。
しかしながら、これは本当に 「 無駄遣い 」 なのだろうか。
役人が私的な飲み食いに浪費したり、公金を横領した事案とは、少し性格が違うような気がするのは、私だけだろうか。
たとえ官僚に留まらなくとも、彼らは何かの 「 職 」 に就いているだろうし、民間企業においても、日本の産業発展に寄与する可能性がある。
元来、奨学金的な制度というものは、「 見返り 」 を期待せず、優秀な人材を支援することが目的ではないだろうか。
当初の予定と、たとえ活躍の場が違ったとしても、優秀な資質に対して教育の機会を与え、育成することを 「 無駄 」 と切り捨てるには抵抗がある。
たしかに、それは 「 公金の不正利用 」 とも考えられるし、一部の者だけに特典が与えられることへの、不信感、不公平感も生じるだろう。
だが、「 職種を問わず、未来のリーダーを育成する 」 という観点からみれば、一概に 「 無駄遣い 」 ではないような気もするのだ。
むしろ問題は、そこまでして高い教養を身に付けた者が、形ではなく、どのような哲学をもって 「 社会に貢献するのか 」 という点ではないだろうか。
つまり、たとえ予定通りに官僚の仕事を続けたとしても、その経験を生かせず、人の役に立たないことのほうが、よほど 「 無駄遣い 」 だと思うのだ。
他の道へ進んだ者に対しても、単純に、お金を国庫に 「 返還 」 するのではなく、将来の社会へ 「 還元 」 することが、より理想的ではないか。
いづれにせよ、この費用を無駄と考え、お金の返還を要求するのは、少し 「 セコい 」 気がするのだが、他の人はどうお考えになるのだろう。
税金の無駄を調べ、倹約することが目的なら、他にも方法はあるだろうし、投資される価値も無い官僚こそ、「 無駄な存在 」 なのかもしれない。
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