少年犯罪などが起きると、「 近頃の子供は・・・ 」 という話が多くなる。
では、「 近頃の大人 」 は、立派にやっているのだろうか。
人間の脳の中で、欲望や衝動をコントロールする機能を司っているのは、大脳皮質の前側に位置する 「 前頭前野 」 という部分が中心となる。
前頭前野は、脳の中で、もっとも成熟に時間を要する部分であり、十五歳から十八歳までの期間をかけて完成される。
だから、十八歳に達していない子供が、欲望や衝動のコントロールが苦手というのは、ある意味、やむをえないことでもあり、弁解の余地もある。
実際、手がつけられないほど衝動的で、攻撃的な子供が、年齢を重ねるとともに、まるで別人のように落ち着くことも珍しくない。
それは、少年法によって、子供が大人と同様には裁かれない大きな理由の一つとしても、よく知られている。
我々が小さい頃、子供は遊ぶもの、大人は働くものという認識が強かったように思うが、今の大人は、自分たちも遊びたいと思う意識が強いようだ。
子供たちと同じように人生を楽しもうと考えること自体は、けして悪いことではないし、それはまた、世の中が豊かになった証でもあるだろう。
しかしながら、法律の面でも、社会における役割においても、やはり子供と大人を同列にみなすことはできない。
子供と大人の違いがどこにあるのか、人によって解釈は違うだろうけれど、まず、「 自分の責任が果たせる 」 ということが、大人の義務だと思う。
いつまでも子供のようにありたいと願うのは自由だが、自己責任のとれない大人が増え、社会が混迷を極めるようでは、かなり問題がある。
人格障害の人の心理構造は、子供の心理構造に多々一致する。
自分たちさえよければそれでよく、悪いことは他人のせいにし、周囲の迷惑よりも、自分の都合を優先する。
本物の子供たちよりも、金と知恵と力を持った、怖いもの知らずで欲張りな 「 大人の姿をした子供 」 が、巷では急速に増殖している。
問題となるのは、子供は成熟していく途上にあるけれども、大人の場合は、そこで成長が止まっているというところである。
本人も周囲も、大人だと錯覚し、表面を取り繕う力や知恵を持ち、それなりに地位や権力を持っていたりもするので、影響が大きく、対処も難しい。
成人式や卒業式などで暴徒化する子供を指し、「 今の子供たちは我慢が足りない 」 などと言う人も多いが、いまの大人は我慢強いのだろうか。
大部分はそうなのかもしれないが、子供並か、あるいは、それ以下の我慢強さしか備わっていない大人も、少なくはないように感じる。
順番が守れない、待つことができない、黙って話を聞けないという大人を、見かけることが多い。
静粛にすべき場所で、ぺちゃくちゃと喋っているのも、電車の中で携帯電話を無遠慮に使っているのも、子供たちだけとは限らないようだ。
大人がこんな調子なのに、子供たちに秩序を説くのは無理な話だろう。
子供のように感情も行動もコントロールできない大人を蝕んでいるのが、他ならぬ 「 人格障害 」 という問題である。
さまざまなタイプの人格障害が、広く現代社会に浸透し、物質的には豊かになったはずの暮らしを、不愉快で、イライラするものにしてしまっている。
その一端が、責任をとれない大人、子供っぽい大人の急増にもみられる。
人格障害があると、あきらかに依存症になりやすく、テレビゲーム依存症、携帯依存症、ネット依存症など、子供が好む嗜癖にもハマりやすい。
もちろん、それは程度問題で、「 ほどほどに 」 楽しむには害もないのだが、そういった 「 ほどよさ 」 が自制できないのが、人格障害の特徴である。
実際、社会が極端に 「 若々しくあること 」 に重きを置く実情もある。
娘と同じ格好をし、姉妹のように話せるということを自慢する女性も多いが、そうした行動の裏には 「 現代社会の自己愛性 」 が潜んでいる。
老いを潔く受け入れず、あくまでも若いときのままの姿を保つことに大きな価値を置く社会には、自己愛型人格障害が発達する土壌があるのだ。
私なんぞも、そういう人に遭遇すると、「 いやー、お母さんでしたか。てっきり妹さんかと思いましたよ 」 などと、心にも無いことを言ってしまう癖がある。
どう見ても不自然なんだから、皮肉か、社交辞令だと理解してくれれば良いのだが・・・本気にされるといけないので、これからは慎もうと思っている。
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