Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2004年07月25日(日) 作者の人物像


フランス人作家 カミュ の小説 『 異邦人 』 は、1942年に発表された。

いまもなお、この作品は、日本の中学生、高校生の間でよく読まれている。


皆様の中にも、「 そういえば、学生の頃に読んだ記憶がある 」 という方も多いだろうが、読むことにした理由と、読んだ季節までご記憶だろうか。

実は、この作品は、今ごろの時期 ( 7月〜8月 ) によく売れる。

たしかに、この作品に描かれる季節は、夏そのものである。

作品の舞台は灼熱のアルジェリアで、物語の主人公が殺人を犯した理由を尋ねられて、「 太陽がまぶしかったから 」 と答える有名な台詞も登場する。

しかし、それが理由で、夏場に売れ続けているわけではない。


売れるのは、「 夏休み読書感想文 」 の題材に選ばれやすいからである。

その理由は単純に、「 ページ数が少なくて、薄い 」 からだ。

内容は、けして単純なものでもないが、大長編の 『 風と共に去りぬ 』 やら、『 戦争と平和 』 やらに比べれば、かなり短い時間で読破できる。

読書感想文という課題に対し、本格的に取り組む志がある学生は少なく、たいていは 「 適当に済ませ、さっさと遊びに出掛けたい 」 者が大半だ。

きっと今も、日本中の学生の何人かは、この本を読んでいるだろう。


物語は、当時、フランスの植民地だったアルジェリアに住むサラリーマンである、ムルソーという男の数日間を描いたものだ。

養老院に住んでいた母親が亡くなり、会社を休んで、故人と親しかった人たちと葬儀に参加するのだが、遺体も見ようとせず、涙も流さない。

葬儀が終わると帰途につき、翌日には恋人とコメディ映画を観て、その夜は彼女と一夜をともにする。

彼女から結婚を申し込まれると、「 愛してはいないけれど、君が結婚を望むのなら、してもいいよ。愛なんて意味ないし 」 と、答える。

その後、ヤクザ者の知り合いに誘われて出掛けた先でトラブルに遭遇し、人を撃ち殺したことから警察に逮捕される。


裁判では弁解もせず淡々と罪を認め、裁判長に 「 動機 」 を尋ねられると、「 太陽がまぶしかったから 」 と、答える。

死刑判決が決まると、懺悔を勧める神父も追い返し、最後に 「 私の処刑に人が集まり、私に憎悪の叫びをあげることが、私の望みだ 」 と告げる。

ざっと説明すると、こんな物語で、ようするに 「 変人 」 の話である。

これを 「 人格障害者の転落の人生 」 と読めば、名作文学とは程遠いタダの三文小説に成り下がるし、読書感想文的にみても落第点に終わる。

教師が望むような感想文を書くためには、少し、読み方にも工夫が要る。


この作品で描かれているのは、「 社会にとけ込めない 」 という意味での 「 異邦人 」 の姿であり、そこを理解しているかどうかが問題となる。

無気力、無感動で、愛も友情も正義も信じないダメ主人公の人格を通じ、「 現代人の疎外 」 とか、「 人間の不条理性 」 を感じなければならない。

それはまさしく、20世紀のなかばに脚光を浴びた 「 実存主義 」 に関わる問題で、カミュはこの作品で 「 実存主義文学の第一人者 」 となった。

ちょっと中学生あたりでは難解なテーマなのだが、そのあたりを巧く 「 匂わせる 」 ようなことを書けば、そこそこに高得点がもらえるだろう。

さらっと読んで、ちょっと哲学的な理解をし、多少の工夫を加えた感想文を書けば、友人が 『 罪と罰 』 を読んでる最中に、プールへ出掛けられる。


もっと簡単に感想文を書けるのは、「 太宰 治 」 の作品などである。

なぜかというと、それは 「 作者が自殺しているから 」 だ。

作品の内容にはさほど触れず、「 いくら立派に、愛だの、友情だのと書いても、自殺する奴の書いた文章など、何の説得力も無い 」 と書けばよい。

実際、この世で一番大切だと、一般的に考えられている 「 愛 」 とか 「 命 」 といった倫理観を、「 自殺 」 という行為は全否定するものである。

他人には、「 命って大切なんだよ 」 とか、「 愛は最大の喜び 」 などと言いつつ、自分は生きる義務を放棄するのだから、こんな無責任な話はない。


世の中には、どんなに頑張っても、健康で長生きできない人もいる。

それでも、与えられた境遇の中で、あるいはその壁を乗り越えるため、血の滲む努力をしている人がいて、彼らより恵まれた者にまで、勇気を与える。

人生に無数の選択肢がある中で、「 自殺 」 という行為を選ぶということは、彼らの 「 命に対する情熱 」 に、つばを吐きかけるのと同じことだ。

そういう意味で、滅多に他人を中傷したり、攻撃したりすることはない私だが、自殺を企図する者だけは 「 人間として最低 」 だと断定する。

そんな人間が、愛だの友情だの語ったり、世間の不条理を問うてみたり、政治の不信を嘆いたところで、何の説得力があるというのか不明である。


生きようとせずに自殺を図ることは、人格障害者によくみられる 「 逃避 」 という行動の一種で、その行為自体が 「 人格の異常 」 を証明している。

人格に異常が認められる人物の、ましてや自分は関わらずに、他人にだけ努力を求め、自分はとっとと自殺する者の話を、なぜ聞く必要があるのか。

たしかに、太宰治にしても、三島由紀夫にしても、文学作品そのものの価値や力量は認めるが、自殺した時点で一切の 「 尊厳 」 は失われている。

立派なことを書いていても、所詮は 「 他人には求め、自分は責任を負わない 」 という人格とともに、すべては虚構の世界である。

筆力さえあれば、高質の文学も書けるだろうが、自分は、作者の背景も含めて内容を吟味する主義なので、太宰作品などは 「 下の下 」 である。


生きるということは、たしかに難しいこともあるけれど、それは 「 努力 」 などではなくて、「 当たり前のこと 」 である。

したがって、自殺をする愚か者というのは、「 根性がない 」 のではなくて、「 当たり前のことを、しようともしない者 」 ということになる。

自殺する者も最低だが、それを庇護したり、さらには礼賛する人間、仲間を増やそうとする人間は、社会にとって 「 有害このうえない存在 」 だと思う。

命の大切さならば 「 本当に命を大切に考えている人から 」、愛の尊さなら 「 本当に家族や周囲を愛している人から 」 学ぶのが一番である。

読書感想文の季節、これから何かを読もうとする若い人には、作品そのものの評価だけではなく、作者の人物像まで研究して、臨んでもらいたい。






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