2004年07月20日(火) |
人格障害時代からの脱皮 |
大学時代に 「 心理学 」 と出会ってから、学問に対する認識が変わった。
それは人間の本質に迫り、現代社会の理解にも欠くべからぬ視点である。
最近の世の中は、過去の常識では考えられなかった異常な事件が発生し、さらに悪いことに、それが、特別で例外的な出来事でもなくなりつつある。
また、ごく普通の人が暮らす毎日の生活においても、職場や、学校や、家庭や、街の中で、気持ちよく生きるということが、だんだん難しくなっている。
このような現象は、ある一部の不心得者による 「 個人レベルの問題 」 というよりも、「 社会全体に深く根ざした問題 」 のように感じる。
心理学に関する書物を読み返す度、そういう 「 人々を脅かすモノの正体 」 を解く鍵が、実は、人間の心の中にこそあるような気がしてならない。
時事問題を語るサイトも無数にあるが、自分としては個人的に興味の深い 「 心理学的な見地 」 から、今後、様々な問題を考えていきたいと思う。
と、改まって 「 妙な挨拶 」 から書き始めてみたが、過去に自分が書いてきたものも、特別に意識したわけではなかったが、そういうスタイルが多い。
個人と社会の関係を結びつけるものは、それぞれの人が有する 「 人格 」 であり、それぞれの人格は、それぞれの心理を映し出す鏡のようなものだ。
いま、社会には 「 人格障害 」、あるいは 「 人格障害的な行動様式、考え方 」 が急速に浸透拡大している。
犯罪や事件に限らず、ごく身近で常識の通用しないこと、不愉快な体験を強いられることの原因の大半が、「 人格障害の問題 」 に集約されている。
近年、人格障害に関する書物も多数出版されているが、その実態を知ることで、現代社会に起きている事件や現象も、納得がいくようになるだろう。
断っておくが、人格障害というのは、特別な一部の人間の問題ではない。
現代人の誰もが、「 程度の差 」 はあれ、抱えている問題である。
だから、人格障害を、誰か自分以外の 「 悪い奴 」 の問題だと考え、その人間だけを排除すればいいという考え方では、決して事態を改善できない。
むしろ、そういう考え ( 常に自分は絶対に正しく、こいつが悪い ) こそが 「 人格障害的な思考 」 であり、社会をますます混乱させてしまう。
現代人や、現代社会が内包している自分たち自身の問題として捉え、冷静に対処していくことが必要なのである。
人格障害にも様々なタイプがあるが、共通していえるのは 「 自分への強い執着 ( 自己愛 ) 」 と、「 社会への耐性の欠如 」 の二点である。
人格障害の人は、自分への強いこだわりを持っているので、それが過剰な自信になって現れたり、逆に、強いコンプレックスや自己否定にも現れる。
また、傷つきやすく、過剰に反応するので、こうした過敏性が社会での適応を悪くすると同時に、周囲へ戸惑いを与えることが多い。
これは、あきらかに 「 うつ病 」 と同じ症状である。
このところ、「 うつ病 」 の人が増えているが、比較的軽度の人は 「 精神病質 」 と位置付けるよりも、「 人格障害的傾向 」 と考えたほうが適切だろう。
また、人格障害の人の思考には 「 中間 」 がない。
職場や、家族や、恋人から、ほんの少しでも冷たい素振りを見せられただけで、捨てられるのなら死んだほうがマシだと考えて自殺企図する。
死ぬという究極の結論を出すまでの間には、無数の選択肢があるはずだが、中間はまったく目に入らないのである。
自分の命を人質にして、周囲から愛情と関心を得たいという行為に及ぶと、周囲も 「 腫れ物にさわる 」 ような圧迫感に怯える日々を過ごす。
そのため、人格障害者を抱える家族においては、それをまた原因として、自らも 「 うつ 」 に陥るなどして、人格障害の輪が広がることも多い。
中間の無い、人格障害的 「 両極端な思考 」 は、個人のサイトにも多い。
正常な大人なら、「 この人の、ここは良いが、ここは悪い 」 と、全体的に見渡した冷静な判断ができて当たり前なのだが、それができない。
何かのきっかけで、アメリカは悪い、小泉は悪いと感じたら、相手の長所には目をそむけ、徹底的に糾弾することしかできないのである。
これは、一部の粗悪なマスコミにも責任があるけれども、彼らはインパクトのある記事で部数を増やすことが目的であり、人格障害が理由ではない。
他人に対して全否定する思考は、育ててくれた恩など忘れて、小遣いをくれなかったら 「 お母ちゃんなんて死んじゃえ 」 と罵る幼児と同じ次元である。
そういうサイトが劣悪で、排除すべきだと言いたいのではない。
いまは、そういう 「 すべて自分の思い通りにならないと気が済まず、何かの対象に不満、攻撃を並べ立てる 」 という風潮が、はびこる時代なのだ。
誰かが戒めても、「 言論の自由 」 を盾にとり、悪びれることもなく自己愛的な主張を繰り返し、反省することなどない。
だいたい、人格障害の人は、賞賛に対しては子供のように無邪気に喜ぶが、欠点を指摘されたり非難を浴びると、憤慨するだけで耳を貸さない。
そういった風潮に慣れてしまった人が増えていくことで、ますます他人への配慮、周囲への気遣いなどは希薄になり、世間は殺伐さを増していく。
この状況を改めるためには、「 排除 」 ではなく、世の中全体の 「 価値観 」 自体を変えていく必要がある。
もっと、人間らしい心や良識といったものを大切にし、怒りは攻撃のためでなく、善意が踏みにじられる行為に向けられるべきであろう。
心に空虚を抱え、将来に希望を感じられない人を減らすよう、政府は努力しなければならないし、マスコミは刹那的なムードを演出するべきでない。
そういう 「 社会の潮流 」 というものは、他の誰でもない我々自身がつくりあげてきたものだから、変えていくこともできない話ではない。
ちょっと前まで、日本が海外に比べて優れているのは、実はそういう点だったというところも、誰もが反省しなければならないように思う。
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