最寄の駅近くに横断歩道があって、盲人用の音が出る信号機がある。
信号機の下には、「 交通弱者用押しボタン 」 というものが付いている。
ボタンの位置から推察すると、おそらくそれは車椅子の人が使いやすいように設置されたものだと思われるが、なんとなく表現に引っ掛かる。
もしも、自分が車椅子での生活をしなければならなくなったとき、世間から 「 弱者 」 呼ばわりされたなら、ちょっと不愉快に感じるような気がする。
たしかに、そのボタンが高い位置に付いていたなら、他人の手助けを必要とする可能性が高いし、低くする背景には 「 弱者 」 への配慮がある。
けれども、足が不自由な状態にある人を 「 弱者 」 と決めつけ、そういう人たちへのサービスを公然と指し示すのは、いかがなものだろうか。
些細なことかもしれないが、ちょっと首を傾げてしまう。
車椅子に乗っていても、陽気に人生をエンジョイしている人はいるだろうし、何の身体的不具合がなくても、生きる希望を失ったような人もいる。
快活な老人もいれば、半病人のような若者もいる。
ある年齢に達した人がすべて 「 老人扱い 」 を望むわけではなく、すべての高齢者が、電車で席を譲られて喜ぶと思うのも間違いであろう。
特定の状態にある人を総称して、弱者とか、障害者とか、老人という呼び方などをすることに、もう少し疑問を持ってもよいのではないだろうか。
その立場になってみないとわからないものかもしれないが、おそらく私なら、他人から 「 弱者 」 などと呼ばれることに、かなり憤りを感じるはずだ。
信号機というのは当然、屋外に設置されているものだから、それを利用する機会は、外出するときに限られる。
車椅子に頼る生活をしながらも、「 よし、今日は天気も良いし、桜が綺麗だろうから出かけてみるか 」 という、活発な老人がいたとしよう。
かたや、「 他人と口をきくのも煩わしいし、何をするのもおっくうだから家に引きこもっていよう 」 という若者がいたとする。
この両者、どちらが 「 弱者 」 で、どちらが 「 不健康 」 なのだろうか。
ちょっと悩むところではないだろうか。
人間は、ただ長生きすればいいというものではなくて、人としての尊厳や、誇りなど、「 人格 」 を失わずに生きることが大事だと思う。
日本国憲法に 「 基本的人権の尊重 」 が謳われていることは広く知られているが、保護されるべき事柄は 「 人権 」 だけではない。
人権と同様に 「 他人の人格 」 というものも尊重すべきで、むやみやたらに他人の尊厳や、誇りといったものも、傷つけてよいはずがない。
年をとったり、病気や不慮の事故で、あるいは先天的に、身体的な不具合があったとしても、雄雄しく、気高く生きようとする人は少なくない。
その姿は 「 勇者 」 と呼ぶに相応しく、けして 「 弱者 」 ではないだろう。
マスコミをはじめ、いろんなところで 「 差別用語 」 が問題になる。
たとえば、「 かたわ 」 というのは典型的な差別用語であり、テレビや新聞では 「 身体障害者 」、「 心身障害者 」 などと言い換えられる。
ただ、これは 「 言い換え 」 の問題であり、「 知恵遅れ 」 を 「 知的障害 」 と言い換えても、言葉を難しくしただけの話である。
この 「 言い換え 」 も、そういう状態にある人に 「 どう呼ばれたいですか 」 などと、尋ねて決めたものではないだろう。
どちらかというと、健常者同士が会話する際の表現として、品性を良くし、「 場が不快な空気にならないように工夫したもの 」 といった印象が強い。
もし私が身体の一部を喪失して、いわゆる 「 五体満足 」 ではなくなったとしたら、他人から 「 弱者 」 という扱いを受けるのだろうか。
仮にそうだとしたら、とても反発するだろうと思う。
私のことを 「 弱者 」 として労わろうとする者に対して私は、「 私は、たしかに かたわ だが、けして 弱者 ではない 」 と猛抗議するはずだ。
差別され、阻害されることよりも、「 弱い立場 」 などと決め付けられる屈辱のほうが、きっと耐えられないことのように思う。
たかが 「 押しボタン 」 ひとつのことで、そこまで熱弁しなくてもよいのだろうが、公共の機関による作業にしては 「 お粗末 」 に感じる次第だ。
以前、スポーツで怪我をして、短い期間ではあるが車椅子に乗ったことや、松葉杖をついたことがある。
ずいぶん不自由なもので、できればあまり外出したくないと思った。
だからこそ、車椅子で行楽に出かけようとする人や、通勤、通学をする人の情熱や、意欲というものには深く敬服する。
そんな人々に 「 弱者 」 のレッテルを貼ることが、正しいとは思えない。
安直だが、「 勇者ボタン 」 とか、「 活き活きボタン 」 など、元気に出かける意欲を増進するネーミングのほうが、本当は望ましいように感じる。
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