私の予測は見事に外れ、高橋選手は 「 アテネ行きの切符 」 を失った。
個人的な気持ちとしては、応援していただけに、この結果を残念に思う。
夕方、駅のスタンドに並ぶタブロイド誌の早刷りは、「 高橋 落選 」 の大きな文字が一面を飾り、衝撃的なニュースといった扱いであった。
たぶん、海外のメディアや、陸上関係者にも、興味深い話題となるだろう。
陸連でも、かなり考えて ( 自分達の立場など ) 出した結論のはずだ。
たぶん私を含め多くの人にとって 「 納得はし難いが、理解は及ぶ 」 結果であり、残念ではあるが、受け入れざるをえないものだ。
今でも、「 実力は断然上 」 という意見に変わりないが、こうなったら選ばれた三人の選手に期待し、頑張ってもらう以外に道はない。
人の評価というものは、「 機会は均等に与え、結果は公正に判断する 」 というのが、私の思う最善策である。
ここでいう 「 公正 」 は、「 公平 」 とは似て非なるものだ。
今回の判断は、たしかに 「 公平 」 ではあるが、はたして 「 公正 」 かどうかについては、少し疑問の余地がある。
このあたりは結果論によって左右されるもので、たとえば、今回の三人から 「 金 」 を制する者が出れば、それは正論として歴史に残されるであろう。
そういう結果に至らなければ、それは永遠に 「 謎 」 のまま、真理の見えない迷宮の中で、ああでもない、こうでもないと、議論が続くだろう。
ハッキリしているのは、「 メダリストといえども、例外は認めず 」 という強硬な態度を陸連が示したことで、陸連の権威については力強さを増した。
それでもいいのだが、今後は 「 最初に確固たる選択のルールを示す 」 といった態度を明確にとるべきで、密室の審査会などは廃止すべきだ。
今回の例でいうと、もし、審査会での評議は無く、選考レースの結果のみが問われることが明確なら、高橋選手は名古屋に出場した可能性が高い。
今になって語っても仕方ないが、そのあたりの曖昧さが、選考レースの舞台に彼女が姿を見せなかった理由であることは、どうやら間違いない。
大事なことは、過ぎてしまったことより、今後、このような事態で、真に実力のある者がエントリーの選択を誤らないように、正しく指導することである。
この件もショックだったが、昨日は、もっと衝撃的なニュースに遭遇した。
他校だが、自分と同じ学年で陸上部の主将をしていた友人が、先月、癌によって亡くなったという訃報を、共通の知人から伝え聞いたのである。
彼とは、一時期同じ職場で働いたことがあるのだが、自分も陸上部の主将をしていたので、当時の話に花が咲き、すぐに仲良くなった。
しかも、よくよく昔の記憶を辿ってみると、お互いに顔や名前を覚えてはいなかったが、学生時代にも、会っていたはずであることがわかった。
この二年ほど会ってはいなかったけれど、癌で入院し療養中であることは知人から聞いて知っていたので、以前から容態を気にかけていた。
よく、「 昨日の敵は今日の友 」 などというが、二十年以上も昔のライバルは、たしかに時を経ると “ 戦友 ” のような存在に感じる。
まだ年寄りというほどではないが、同級生の誰かが死んでも、さほど不思議には感じない年齢になったけれど、いささか無念である。
彼には、奥さんと、二人の息子がいて、下の子はまだ小学生のはずだ。
子供達は二人とも野球が好きで、「 陸上競技には、興味がないらしい 」 と苦笑いしていたことを思い出し、懐かしさがこみあげてきた。
謹んで、彼の冥福を祈りたいと思う。
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