日本人は、外国語の習得能力が低いと言う人がいる。
そうかもしれないが、それは 「 語学力 」 とは別の問題だろう。
むしろ日本人の平均的な語学力は、世界でも群を抜いていると思う。
世界の 「 文字 」 を検証すると、アルファベットや、カタカナや、ひらがななどの 「 表音文字 」 と、漢字、象形文字などの 「 表意文字 」 が存在する。
表音文字というのは音を表す文字で、文字自体には意味を持っておらず、表意文字というのは、文字自体が意味を表すという特徴を持っている。
日本語を流暢に操ろうとすれば、カタカナ、ひらがなの表音文字をはじめ、漢字という表意文字までも巧みに組み合わせて用いることが必要となる。
さらに外来語や、日常に深く浸透した外国語の数々まで、大半の日本人は使いこなしており、これほど幅広く文字を使い分けるのは日本人だけだ。
そういう意味でも 「 読む、書く 」 という能力に関しては、平均的に日本人は比類なき語学力の修練を積んでおり、その能力は世界の水準に劣らない。
ただし、発音の音域が少ないため、「 会話 」 という作業については、新たに外国語を学ぼうとする際、未知の音域を習得せねばならない。
それが、たとえば英語でいうと 「 R 」 と 「 L 」 の違いであったり、「 V 」 や 「 th 」 の発音であったりするわけである。
だから、複雑多岐な発音には慣れている中国人のほうが、新たに英会話をマスターしようとした場合に覚えが早く、同じ努力でも流暢に通じやすい。
つまり 「 日本語には使用されない音 」 というものがあって、それを無意識に使いこなせるまでの作業に、英会話上達までの大きな壁がある。
諸説あるだろうが、私としては、小学校で学ぶ 「 ローマ字 」 というものに、大きな疑問を抱いており、あれは本当に必要なのだろうかと思う。
必要とされる方の意見として、「 英語学習の準備 」 という大儀を掲げる人が多いのだが、それならば、最初から英語を教えればよいのではないか。
もともと発音が異なるのだから、無理に五十音をアルファベットに変換するプロセスなど経ずに、最初から基礎英語を学ぶほうが、混乱は少ない。
たとえば中学時代の級友で、「 Knife ( ナイフ ) 」 を 「 クニフェ 」 と読んで嘲笑われた者がいたけれど、それはまさに 「 ローマ字学習の功罪 」 だ。
それでもまだ、教育界には 「 ローマ字の必要性 」 を説く意見が根強くて、小学校4年生くらいになると、必須授業としてローマ字学習が行われる。
ローマ字を覚える意義として、「 アルファベット恐怖症 」 の子を生み出さないように、本格学習の事前準備だと唱える声もある。
中学になって、いきなり英語の授業が始まると、見慣れない文字に対する不安から、臆してしまう子がいるといけないというのだ。
それならば逆に、小学校低学年とか、もっと早い段階から幼児向けの英語学習を始めればよいことであって、ローマ字だけが有効な手段ではない。
あくまでも慣れることが目的なので、セサミストリートを観せたり、学習というよりも、気楽に馴染ませる程度のことなので、簡単な話であろう。
ローマ字を習うことだけが解決法ではないし、この意見は同意しかねる。
あるいは、ローマ字で 「 子音と母音の組み合わせ 」 を覚えることにより、英語のスペルを学ぶときに役立つのではないかという意見もある。
この意見にも無理があり、たとえばローマ字なら 「 カ行の言葉 」 はすべて 「 K 」 で始まると覚えるけれど、英語では 「 C 」 で始まる語句も多い。
カリフォルニアは California であって、Kalifornia では通用しない。
また、「 サ行の言葉 」 はすべて 「 S 」 と覚えるけれども、ここでも Chicago のように、英語では 「 C 」 で始まる語句が少なくない。
実際の英語とは異なる規則性を、最初に 「 大前提であるが如く 」 認識してしまうと、日本人は勤勉な農耕民族の血をひくせいか、混乱に陥りやすい。
発音記号を読みやすくするために、ローマ字が有効と語る説もある。
ローマ字が読めない子供に発音記号を教えようとするのは、かなり困難であり、そのためにもローマ字学習は必要だとする意見だ。
これも個人的に 「 腑に落ちない話 」 で、なぜならば、発音記号なんてものは、英語学習の初期から読めなくてもいいと思うからである。
前述したように、小学校低学年ぐらいから英語に馴染ませておき、ある程度の単語を認識できるようになったうえで、教えれば済む話だ。
こっちの単語にある 「 O 」 とあっちの 「 O 」 は同じ発音をするでしょ、でもこっちの単語の 「 O 」 は違うよね・・・といった具合に教えればいい。
もちろん、ローマ字の存在だけが日本人の英語学習を阻害しているなどとはいわないし、それなりに意義も認められる。
ただ、もともと大幅に異なる言語を、手近なところから結びつけようとしても矛盾が多く、特に、「 文字に頼る 」 ところからスタートするのは危険だ。
日本人は 「 読む、書く 」 といった能力に関しては長けた資質が備わっており、そのためか、どうしても新しい知識を文字で覚えようとする。
しかし、日本人も欧米人も、あるいは世界中どこの民族であっても、赤ん坊が始めて言葉に出会うのは 「 文字ではなく音声 」 から始まるものだ。
以上の理由から、ローマ字教育には反対なのだが、どうしてもというなら、ヘボン式 ( si ではなく shi、hu ではなく fu ) から始める改革を求めたい。
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