最近、街中で 「 踊っている若者 」 をよく見かける。
上手そうな人もいるし、そうでもなさそうな人もいるようだ。
駅の高架下とか、雑居ビルの前とか、場所はいろいろだが、それぞれ共通しているのは、大きな窓ガラスやドアがあるところだ。
どうやら、ガラスに映る自身の姿を眺めつつ、振り付けの点検などを行っているように見受けられる。
たいていは 3〜7人 ぐらいの集まりで、小型のラジカセから流れるリズムに乗せて踊るのだが、皆一様に真剣で、不真面目な素振りは感じられない。
そこらは、「 そんなところで勝手に踊ってはいけません 」 という場所が大半なのだろうけれど、それほど騒音も発していないし、迷惑も感じない。
それにおそらく、彼らの真剣な踊りっぷりも、それぞれの場所の管理をする人たちに、「 まぁ、大目にみてやるか 」 と思わせているような気がする。
彼らの踊りは、ストリートダンスというよりも、ダンススタジオでレッスンをしているような感じで、いわゆる 「 練習 」 みたいなものである。
つまり、どこかで 「 お披露目 」 をするための稽古なのだろうけれど、どちらかというと、プロっぽい子は少ない。
何かのオーデションを受けるのだとしても、かなり水準が低いようだし、かといって、文化祭や忘年会の出し物にしては、気合が入りすぎている。
だから、「 この子たちは、いったいどこで踊りを披露するのだろう 」 ということが、以前から気になっていて、いまだに答えがわからない。
たまに、尋ねてみようかと思ったりもするのだけれど、変なオジサンが来たと思われるのも嫌だし、ついぞ躊躇してしまうのである。
数年前から見かけているけれど、最近は少しづつ様子が変わってきた。
というのも、当初は男子が多かったような気がするのだが、特に駅前など、人通りの多い場所では、ほとんど女子しか見かけないようになった。
これは男同士ということもあるのかしれないけれど、たまに踊っている子と目が合ったりすると、男子の場合、少し照れくさそうにする子が多い。
女子の場合は、自分たちの踊りの世界に集中しきっている感じで、人通りが多くても、立ち止まって眺める人がいても、まるで気にしていない。
こういうところからも、女性は男性よりも肝がすわっていて、雑念に囚われず集中できる素養が備わっているのだろうかと感心してしまう。
若い時期に習得した芸能や技能を、年老いても体が覚えているということのたとえに、「 スズメ百まで踊り忘れず 」 という言葉がある。
ただ、この言葉は、どうも額面どおりには共感しにくい。
その昔、『 サタディ・ナイト・フィーバー ( 1977米 ) 』 という映画が流行った頃、私もディスコに足繁く通ったことがある。
しかし現在、当時はどのようなステップで踊っていたのか、まったく思い出せないし、それ以上に、何が楽しくて踊っていたのかさえ、まるで記憶にない。
人によっては、今も昔と同じように ( 同じ気分で ) 踊れるという人もいるだろうが、私の場合、それらの感覚を、どこかに置き忘れてきたようだ。
一番最近に踊ったのは、数年前、オールディズのライブハウスで、ロックンロールに合わせてツイストを踊ったあと、目当ての女性とチークを踊った。
ただ、この時はかなり酔っていたし、女性に接近する下心のほうが強かったので、踊り自体はどうでもよかったのである。
ひょっとすると残りの人生で、人前で踊りを披露することなど、まったく無いのかもしれないなぁと思う。
踊らないのはともかくとして、あんなに 「 フィーバー [ fever ] = 熱狂 」 した記憶すら失ってしまっているのは、なんとも淋しいかぎりである。
あるいは、人体のシステムというのは巧く出来ていて、昔を思い出して無茶しないように、体がついてかない記憶は消去されるものなのかもしれない。
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