笑う角に光りあれ...オレステス・デストラーデ

 

 

倫理 - 2004年10月27日(水)

学校の本屋に行ったら『現代思想』の11月号が置いてあり、
特集が「生存の争い−医療・科学・社会」だったため即購入。
まだ冒頭の数ページしか読んでいないが、やっぱり考えさせられることは多い。


1つ引っかかったのは、立岩真也氏の文の中に書かれていた清水哲郎氏の引用。
「倫理的な境界線を引くとすると、積極的な行為と消極的な行為の間ではなく、「死を意図して」と「緩和を意図して」との間が有効である、というのが緩和医療の倫理である」


前半部分の「積極的な行為」と「消極的な行為」の間に明確な境界線を引くことが困難なことは理解できる。
これはピーター・シンガーの『実践の倫理』の中でも書かれていることだが、もしある重度の病気をもった患者がいた場合、医者が何か行為を行うことによって死に至らせるのと、何の行為もせずに死に至らせるのとでは、一見異なるように見えるが、意図が同じであればその行為の違いはほとんど関係ないように見える。
しかし一方で、意図が同じ、つまり誰かを意図的に殺そうとした場合、包丁で真正面から刺すのと、ブレーキが効かなくなりつつある車を貸すのでは、現在の法の下では罪の重さは異なるだろうし、確実性の問題からも違いがある。
このように、境界線は状況によって二転三転してしまう。


しかし、後半部分には何か疑問を感じる。
たしかに、後半部分では前半部分の根拠を証明するかのように、意図が異なることが行為の線引きを可能するものとなっている。


おそらく、誰もが医者が人命を救うという命題を放棄し、自ら死を導き出すような行為をすることは正しいとは思わないだろう。
しかし、ここで述べられている「死」と「緩和」というのは、決して2つに分けることができない入れ子状のものなのではないかと僕は思う。
「痛みを緩和するための死」であり、また「死が痛みを緩和させること」なのではないんじゃないだろうか。


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